リーフデ号の「謎」とは

 デ・リーフデ号とは何か。1600(慶長5)年、豊後国臼杵(現大分県臼杵市)の海岸に1隻の外国船が漂着した。日本に最初に到着したオランダ船のデ・リーフデ号。400年余に及ぶ日本とオランダの交流はここから始まった-。これが一般的な説明だが、異議を唱える人がいる。何が違うのだろうか。

 デ・リーフデ号の少数の生存者の一人であるウイリアム・アダムズ(三浦按針)にゆかりの臼杵市で開かれるANJINサミットのポスター臼杵市と長崎県平戸市、静岡県伊東市、神奈川県横須賀市が持ち回りで「ANJINサミット」を開いてきた。今年は臼杵市が会場となり、16日午後1時半から臼杵市民会館で開催される。
 デ・リーフデ号をめぐる謎の一つは「漂着」か「到着」か、である。今回のサミットの重要なテーマともなる。「リーフデ号は僚船とともに初めから日本の豊後国を目指し、所期の目的通り豊後国に着いたのだから『到着』であって『漂着』や『漂流』ではない」。サミットでは、この観点から検討が進められるという。

 では、なぜ漂着と言われてきたか。「命からがら」とも言うべき状況で着いたからだ。

 臼杵市史には次のようにある。「豊後の一海岸に一隻のオランダ船が疲れ果てた船体を浮かべて救助の手を待っていた。船名はリーフデ号。航海長はイギリス人のウイリアム・アダムズ。パイロットはオランダ人のヤン・ヨーステン。漂着時の乗組員は二十四人で、このうち歩行が可能なものはわずか六人。長期間の航海のために誰もが極限の状況に置かれていた」

 豊後国に至ったのは偶然だったのか、必然だったのか。話は全く変わってくる。

 そんなことを考えながら、佐伯史談会から送られてきた佐伯史談228号を見ると、目次に「デ・リーフデ号、豊後に到着す」とあり、到着説を唱える研究者の主張を紹介している。

 「デ・リーフデ号は南太平洋岸のセント・マリア島沖に停泊中、僚船のデ・ホープ号と合議し、ともに日本の豊後に向けて航行することを決め、その目的に沿って進路を西北西にとっている」。明らかに豊後を目指した航海で豊後に到着したのであって、漂着ではないという。

 そして、どこに着いたのか。「臼杵湾、津久見湾、佐伯湾のどこも可能性がある」とする。

 臼杵市史でも、臼杵到着で100%間違いないとはしておらず、残る疑問に答えるための新しい見方や資料の再検討がなお必要としていた。

 確かに新たな資料などが発見されて歴史が書き換えられることがある。デ・リーフデ号についてはどうだろう。まずはサミットでの議論を聞いてみますか。

 

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