デ・リーフデ号-その②

 臼杵市民会館に飾られているデ・リーフデ号の模型 さて、13日に紹介した佐伯史談228号にあるデ・リーフデ号到着説を唱える研究者とは誰か。元練習帆船日本丸船長で元東京商船大学教授の橋本進氏だと228号に書いてある。日本旅客船協会(東京)が発行している会誌「旅客船」に掲載されているという。日本旅客船協会に電話で問い合わせると、「歴史探訪」「デ・リーフデ号、豊後に到着す-ウイリャム・アダムズ(三浦按針)の航海」と題した連載を電子メールで送っていただけることになった。
 まずはその量に驚いた。日本旅客船協会誌「旅客船」に連載された橋本進氏の原稿前編(旅客船No.269)が11頁、中編(No.270)も11頁、後編(No.271)に13頁とある。こんなに書かれているとは思わなかった。しかも、前編には当時の船の構造や舵、操舵装置のことが書かれ、中編には海流と風の動き、中・後編に当時の海図のあれこれが説明される。

 専門的なことは分からないから飛ばしてしまった。話の要点はウイリアム・アダムスの苦難の航海の軌跡を、アダムスの「妻に宛てた手紙」と「未知の同胞及び同国人に宛てた書簡」に沿って、あらためて詳しく検討したことだ。

 綿布、麻布、毛織物を満載した5隻の船団がオランダを後にしたのは1598年6月だった。そして、1年10カ月後、そのうちの1隻、デ・リーフデ号が豊後国に到着した。この間、多くの誤算があり、多数の乗組員が死亡した。

 しかし、と橋本氏は言う。セント・マリア島(エクアドルのガラパゴス諸島か?)でデ・リーフデ号は僚船の一つ、デ・ホープ号と再会を果たす。そこで会議が開かれ「われわれの商品が最も利益を得るには、どう航海すれば良いかを相談した」。結果「日本では毛織物は大いに尊重される」という理由で日本行きが決まった。

 それが1599年11月だった。そこからは豊後に行くと決めて航海し、実際に着いたのだから到着であり、漂着ではない。橋本氏の説明を大ざっぱに言えばこうなる。

 では、なぜ豊後だったのか。一つは未知の土地に行く危険である。長い航海で経験した。しかも、乗組員の多くは病気に苦しみ、わずか8、9人が歩行できるか、膝で這って動けるぐらいの状態だった。より安全な地、情報がある場所へと向かうのは当然の判断といえる。

 では、豊後は既知の土地だったのか。少なくともポルトガル船は寄港していた。天文20(1551)年8月、ポルトガル船が豊後に入港したことを知ったフランシスコ・ザビエルは豊後に出発しようとした。そこに大友義鎮(宗麟)からの招へい状が届けられた。「これが豊後とキリシタンの最初でかつ正式なかかわりであった」と臼杵市史は記す。

 臼杵市中心部にあるサーラ・デ・うすきは臼杵に実在したとされるノビシャド(修道院)を模して造られた義鎮はキリシタン教義を聞き、領内に布教することを許可した。教会もあったという臼杵や豊後の情報はあり、少なくとも他の場所よりましと判断し、向かったのではないか。そう言われると、納得もできる。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です