加茂か賀茂か~保戸島

保戸島を訪ねたのは3月28日。1カ月半前になる。  保戸島にあるのは「加茂神社」か「賀茂神社」か。7月2、3両日にある保戸島夏祭りの紹介記事を書こうとして迷った。インターネットで検索してみると「賀茂」も「加茂」もある。念のために津久見市誌を見ると「加茂神社」とあった。加茂が正しそうだ。市誌を開いたついでに関係部分を読んでみた。

津久見市誌に加茂神社と夏祭りについての説明があった 加茂神社の祭りは3月、7月、11月に行われるが、夏祭りが大祭であると津久見市誌にある。市誌では、元来は旧暦の6月7、8日に催していたが、月遅れの新暦7、8日に変わり、現在は7月10日になった。9日はヨドである、と記述が続いている。

 次に祭りの進行が説明される。当前組(その年の祭りの担当となった氏子)は祭りの前日に神社の清掃をして、西小路の浜に小屋を建てる。組み立てる小屋は三間四方(1間は6尺。約1.82mだから現代的には約5.46m四方となる)で、神輿のお旅所となるが、ヨドの神楽の舞台でもある―。お旅所とは御神輿を本宮から移して仮に安置するところ。ここでも「ヨド」が出てくるが、前日、前夜のことをこう呼ぶのだろうか。

 今年の保戸島夏祭りの日程では神輿のお浜出(お下り)は2日午後4時ごろ。御神体を神輿に移して仮小屋に向かう。そこで午後7時半頃から夜神楽を舞う。

 翌日は仮小屋の前で湯立て神楽が奉納される。今年は3日午後1時半頃からとある。この後、御神輿お帰りとなるが、この時に神輿とともに担ぎ手が海の中に入って、祭りはクライマックスを迎えるという。

 津久見市誌を読むと、昔は波打ち際を突っ走っていたが、現在は護岸堤防ができたので道路を練るだけであると書いてある。すると、神輿が海に入るのは比較的新しく加えられた部分なのかもしれない。

 保戸島夏祭りでは3日午前中の魚のつかみ取り大会(参加料300円)に続き、午後には水上ゴザ走り、夜は舞踊、カラオケ、花火、抽選会もある。

 なかなか盛りだくさんで楽しめそうだ。

 ところで、神社について調べるために佐伯市立図書館に行ったみた。そこで「大分の神々」(高原三郎著 双林社刊)という本を見つけた。

 著者は学校の先生を長く務め、その後、郷土史研究家として活動を続け、他に「大分の鳥居」「大分の雨乞」などの著作があるという。

 大分県にはどのくらい神様がいるのか。祖神系4477社、御霊神系2212社、職能神系 3997社など全部で10711社ある―と「大分の神々」に集計表がある。

 祖神は神として祭った祖先。これはわかりやすい。では、職能神とは。その説明のさわりを読むと、生産守護神としての農業神では、稲荷など穀物の神、土の神、雷の神、風の神などがあると書かれてある。

 御霊神とは何か。御霊(ごりょう)信仰についての背景説明がある。律令体制の確立にともなって壮麗な藤原・奈良・平安の諸京が次々に建造された。新しい都市生活は光り輝く明るいものに見えるが、一方で暗い陰惨な影を宿していた。それは疫病の流行であり、律令政府内部における政権争奪戦だったという。

 奈良時代は権力闘争に明け暮れた時代だったと著者は言う。その犠牲になり、現世に対する憤懣と政敵への怨念を残して死んでいった人の数は多かった。

 都が京都に移った後も、平安の名と裏腹に疫病の流行と権力闘争は激しさを増した。流行する疫病になすすべを知らなかった人々は、非業の最期を遂げた貴人の怨霊が疫病をはやらせるのだと信じ、恐れおののくようになった。実在した人の霊を御霊(みたま)として祭る従来の考え方が大きく変わったのが平安時代初期であった、と著者は言う。

 非業の最期を遂げた貴人の怨霊への恐れから、怨霊の祭りを行って災厄を免れようとした御霊(ごりょう)信仰が始まった。その結果、従来の氏神祭りと異なった様相の祭りが展開されることになったという。

 氏神祭りは2、4、11月が多かったのに、御霊祭りは5~8月の夏である。夏は疫病・風水害の多い季節である。すなわち怨霊や疫神が猛威をふるう時期だからである。そして、芸能の役割が大きくなったという。氏神祭りでは厳粛で静かな神事が中心になるが、御霊祭りはにぎやかで華美なものになった。

 なるほど現在の夏祭りのルーツはそうだったのか。昔聞いたような気もするが忘れていた。図書館でのにわか勉強で一人うなずいた。

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