臼杵祇園まつり~おまつりカレンダー④

臼杵市観光交流プラザに展示された臼杵祇園まつりの道具など 臼杵市観光交流プラザに行ってみると、7月15日からの「臼杵祇園まつり」に向けた展示が始まっていた。このまつりは臼杵の三大祭りの一つであり、日田祇園(日田市)、中津祇園(中津市)とともに大分三大祇園祭としても知られる。山車とともに誇らしげに写真に納まる人々がいた数々の「うすきの夏祭り」の中でも一番の呼び物といえる。観光交流プラザには、山車(だし)とともに納まる過去の祭りの参加者の記念写真なども飾られていた。

 臼杵祇園まつりはいつ始まったのか。稲葉藩の四代藩主信通が、寛永20(1643)年、海添五味浦の馬場に祇園社の行宮(かりみや)を建て、祇園洲の八坂神社からここへ、初めて御神幸(御神体が祭礼の時に本宮から他所へ移されること)したことが始まりとされています―少し古いが、8年前の「広報うすき」に説明があった。

 臼杵市史によると、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いで東軍(家康方)についた稲葉貞通が、軍功によって美濃の国郡上八幡城(岐阜県)から臼杵に移ったのがその年の暮れ。貞通は慶長8(1603)年に亡くなり、一通が二代藩主になった。

 以来四代信通のころまで家臣団の統制をはじめとして城下町整備や農村への基本的施策が矢継ぎ早に実行される。幕藩体制の中で藩政の足固めを急いでいたのである、と市史は続ける。

 四代信通が行宮や神輿をつくり、御神幸を行ったのは、当時の政治情勢とどれほどかかわっているのだろうか。関ケ原の戦い前後の過渡期、変動期から安定期へと移行したことを示すのか。

 市史をざっと読んだだけではよく分からない。ただ、この当時はこの地域にとって非常に深刻な問題があった。

 幕府は慶長17(1612)年に第一号のキリスト教禁教令を出した。この禁教令を契機に諸国のキリシタンは未曽有の弾圧にさられれることになる、と市史は書いている。

 半世紀足らず前、大友宗麟の庇護の下で臼杵、府内(大分市)には多数のキリシタンが生まれた。

 「臼杵に入部後、しばらくの間はキリシタンに寛大だった稲葉氏であったが、幕府の禁教方針の前に、一転して厳格な弾圧者としての役割を認識して立ち振る舞わざるを得なかったのである」。

 「寛文5(1665)年四代藩主信通は、藩内のキリシタン取り締まりの様子に関し、臼杵はキリシタンが多い場所であるから(取り締まりに油断が起き、幕閣から責任を追及されることも考えられ)気苦労が多い、と時の老中で親戚筋にあたる稲葉正則に本音を漏らしている」。市史は当時の稲葉家の事情を以上のように説明する。

 臼杵に入った稲葉氏は数多くの寺院を建立した。寺院を領民教化のために大いに利用しようとしたと考えられ、特に寛永以降はキリシタン対策という政治的な意味合いが強まってきたと市史は書く。

 祭りの誕生もそうした思惑と関係するのか。専門家でもないから答えの出しようもない。まつりはむしろ肩の力を抜いて素直に楽しむ方がよさそうだ。

 サーラ・デ・うすきに展示されていたのはお槍振りに使う槍か?観光交流プラザ近くのサーラ・デ・うすきにも臼杵祇園まつりで使われるものが飾ってあった。これは何だろうか。説明が見当たらない。

 御神幸ではお槍振りというのがあるらしい。四代藩主信通が家中の諸士や下僕に長柄の槍50本を持たせ神輿の先を練り歩かせた。その槍50本というのは関ケ原の戦いの際、稲葉氏の郡上八幡城を奪還しようとした旧城主を撃退したときの戦利品だそうだ。ただ、槍には見えない。

 何をどう使うか。どんなふうにまつりが進行していくのか。細かくは分からない。7月8日から祇園まつりの山車が観光交流プラザに展示されるという。祭り当日に向けていろいろ聞いてみたい。

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