廃校巡り④~東中浦小

防波堤から一段高いところにある黒ずんだ建物が見えた 防波堤から集落を見ると、一段高いところに黒ずんだ建物が見えた。ここは鶴見半島絶景クルージングの発着地となる佐伯市鶴見梶寄浦(かじよせうら)。もはや使われていそうにもない建物は学校だなと見当をつけた。

 鉄筋3階建ての建物は長く使われていないようだ建物に通じる細い道を上がっていった。鉄筋3階建ての建物があった。一目見ただけで使われなくなって長い時間がたっていることが分かる。おそらく小学校だろうが、校名を示すものが見当たらない。

 校舎の前にあったトーテムポールには「東中卒一同」の文字がわずかに「昭55 3 東中卒一同」と読める文字が刻み込まれたトーテムポールが手がかりとして残されている。

「東中?」。すると、ここは中学校か。ほかに推理する材料もなさそうだ。帰ってから調べるしかない。

 ところで、かつて校庭だったと思えるところの一角にかつての校庭の一角に新たに備蓄倉庫が建っていた備蓄倉庫が建てられていた。梶寄浦地区自主防災会とある。南海トラフ巨大地震がもたらす大津波に備えたものであることは間違いなかろう。ただ、この学校跡地は津波避難地ではない。

津波避難地は学校跡地よりさらに上だった 学校の入り口に標示があった。「ここの地面は海抜12.5m」「津波避難地は約100m」。矢印に従って進むと学校の裏はすぐ山になっている。ここを登っていけという指示である。大津波には学校跡地も安全ではないということか。

 では、備蓄倉庫をここに建てて大丈夫か?もっと高い場所にある第2備蓄倉庫も見つけた結論から言えば備蓄倉庫は一つではなかった。別の場所で第2備蓄倉庫も見かけた。水ノ子島海事資料館に向かう道路沿いのもっと高い場所にあった。

 さて、「東中」を調べるために図書館に行って「鶴見町誌」を読んだ。そこに「昭和62(1987)年3月、併設の東中浦中学校が新設された鶴見中学校に統合され」とあり、結果、東中浦小学校は単独校になったとの記述があった。

 ここには東中浦小、中学校があったが、その後、中学校が統合され、小学校だけになった。

 トーテムポールに刻まれた「55」「東中」の文字は昭和55(1980)年の東中浦中学卒業生一同というわけだ。

 中浦小の前身は梶寄学校と丹賀学校までさかのぼる。町誌によると、明治9(1876)年に村庵を仮校舎として開設された。その後、尋常小学校、国民学校などと名前を変えながら続いてきた。それが昭和34(1959)年に梶寄小と丹賀小が統合し、鶴見村立東中浦小となった。

 この年、鉄筋3階建ての新校舎が完成したとある。そして、長い歴史を誇る東中浦小も平成15(2003)年に児童数減少のため休校となったようだ。それから13年の歳月が流れたわけだ。

 町誌に言わせると東中浦小の立地条件は良くない。「現在の校舎は両側が急峻な山に接し、教室からの展望も開けず、日照時間も短く、学校としては適地といえないので、適地を探しているが、未だ見つかっていない」とあった。

 ところで「中浦」の名前の由来は何か。町誌をもう少し読んでみたい。

 明治22(1889)年の町村制施行で鶴見町域に西中浦村と東中浦村が誕生した。梶寄浦や丹賀は東中浦村だった。その後、東中浦村は一部の地域が分かれて中浦村となった。

 鶴見村(その後「鶴見町」に)は西中浦、中浦、東中浦3村が合併して昭和30(1955)年に人口9023人で誕生した。

 この合併に際し、ひと悶着あったと町誌は書く。大分県の意向は3村に米水津(よのうづ)村を加えた4村合併だった。ところが、佐伯市に近く、合併の中心となる西中浦村で意見が二分されたために決定は難航したという。

 西中浦村では佐伯市との合併を望む地区と3村合併を進めようとする地区に分かれてしまった。そして、西中浦村側が大分県と佐伯市に合併を打診したところ「西中浦村とだけの合併は認めない。3村一緒に佐伯市に合併することは佐伯市が受けない」と断られてしまった。

 米水津村は隣村だったが、当時は現在と比べものにならないくらい交通の便が悪く、合併の合意には至らなかった。

 それが50年後、佐伯市とその周辺の5町3村が合併して新たな「佐伯市」が生まれた。半世紀後にそんなことが起きるとは当時想像できただろうか。

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