保戸島空襲~戦後71年の夏②

企画展「保戸島空襲を後世に」を開催中の津久見市民図書館 1945(昭和20)年7月25日。保戸島の国民学校が米軍機に攻撃され、授業中だった当時の5年生と1年生を中心に児童124人と教師など3人が亡くなった。それから71年の歳月が過ぎ、津久見市民図書館で企画展「保戸島空襲を後世に」が始まった。企画展は今年で3回目になる。

  企画展は図書館の入り口のすぐ右側で行われている。展示されているのは当時の状況を解説した文書が多く、地味な印象は否めない。米軍機の通過ルートと国民学校の配置図その中に、爆撃時の米軍機の通過ルートと国民学校の配置図があった。右上の緑色に塗られたのが保戸島である。北から南下した米軍機「グラマン」が通過した島の一番細い場所に国民学校はあった。L字型の国民学校には一年生と五年生が同じ場所に書かれている。国民学校は2階建てで1階に一年生、2階に五年生がいた。

保戸島国民学校が攻撃された状況が手書きで描かれていた。 国民学校が爆撃された状況は別の紙に手書きされていた。3発の爆弾が投下され、3発目が一年生と五年生の教室を直撃、一年生56人、五年生54人が爆死し、校舎は全壊した。

 なぜ、国民学校が狙われ、多くの子どもたちの生命が一瞬のうちに奪われたのか。企画展では、次のような関係者の証言を紹介している。

 当時、保戸島で一番高い遠見山には海軍の秘密兵舎があり要塞になっていた。その役目は保戸島から豊後水道を通って四国の宇和島まで、海底電線(ケーブル)を通して、その上を潜水艦が通ったら、音波でキャッチする施設の基地だった。また、特攻隊の通路にもあたっていたので、戦時中に作られた日本の地図には、どこにも保戸島は載っていなかった。

 ところが、終戦直前、米軍が基地のことをキャッチした。潜水艦攻撃するのに、この島をたたかねばならないと思ったのだろう。それで島が狙われた。たまたま一番大きかった小学校の校舎を基地と思って空襲したのではないか―。そんな解説があった。

 だが、結果は無差別爆撃であり、非人道的な行為でしかなかった。

 さて、保戸島空襲の記録をまとめた本「子らを偲びて」保戸島空襲の記録として知られるのが「子らを偲びて 保戸島空襲の記録」(得丸正信著 大分県平和教育研究会発行)である。

 得丸氏は旧制臼杵中学を卒業後、1942(昭和17)年に保戸島国民学校助教となった。翌年12月に出征、終戦後の45年10月に復員し、保戸島空襲と教え子の爆死を知った。

 それから34年後、島を訪れ、当時の教え子らと話し合ううちに「被災の状況をまとめてほしい」と言われ、記録にまとめることになったと著書にある。

 本には空襲当時の児童らの生々しい証言がある。「これまで話すことを断ってきたが」と前置きした上で、思い切って体験を語ろうとしている人がいる。

 筆舌に尽くしがたい体験をした人々にとって、その記憶を語るには、これぐらいの歳月は必要だったということだろう。逆に言えば、言葉ではその思いはなかなか伝えられないということかもしれない。

 企画展の案内チラシにあった。「保戸島空襲という未曽有の惨劇が起こったことは周知の通りです。しかし、体験された方々も高齢化が進み、記録を残し、伝えていくことの難しさを実感しています」と。

 企画展を続ける意味は大きい。ただ、いろんな工夫をしていかないと関心は呼びにくいなと率直に思う。

「保戸島空襲~戦後71年の夏②」への2件のフィードバック

  1. はじめまして。
    空襲について調べている、東京の会社員です。
    保戸島への空襲については、米軍側の記録が必ずしも特定されていないものと理解していますが、私の調べたところを下のブログでご紹介しています。
    一度ご覧いただければと存じます。

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