「大分の空襲」を読む

 「大分の空襲」は30年以上前に購入した本だ終戦の日を前に本棚から「大分の空襲」(大分の空襲を記録する会発行)を引っ張りだした。本の一番後ろに「昭和50年8月15日 初版発行」「昭和59年6月30日 第2版発行」とある。西暦でいえば初版が1975年に、第2版が84年に発行されている。第2版を購入した当時は大分勤務だった。

 初版発行から41年、第2版発行からも32年が経過している。もしかしたら、この本のことを知らない大分県民も多いかもしれない。

 大分県立図書館横断検索システムのキーワードに「大分の空襲」と打ち込んでみると、意外なことが分かった。

 「大分の空襲」を所蔵しているのは県内18市町村の図書館のうち10市町。佐伯支局の取材エリアである臼杵、津久見、佐伯3市では津久見市民図書館に1冊あったが、佐伯市立佐伯図書館にはなかった。これは驚きだった。

 海軍航空隊が置かれた佐伯市は、海軍航空廠があった大分市や宇佐海軍航空隊があった宇佐市とともに米軍の攻撃目標となった。

 大分県下が米軍による本格的な攻撃にさらされたのは1945(昭和20)年3月18日。大分県警察史に「大分県下の主な空襲とその被害状況」をまとめた一覧表がある。

 それによると、3月18日の空襲場所は大分市、佐伯市、宇佐郡(現宇佐市)、杵築町(現杵築市)。午前8時50分、県下に空襲警報発令。この日、県下を襲ったのはカーチスSB20ヘルダイバー艦上爆撃機とグラマンF6Fヘルキャット戦闘機で、主要目標は大分、宇佐、佐伯の航空基地だった。

 だが、基地以外でも浅海井(あざむい、佐伯市)、幸崎(大分市)、杵築などで日豊本線の列車に銃撃が加えられ、19日も空襲が続いた―などと県警察史はその状況を記した。

 幸崎で銃撃を受けた機関士と思える人物の体験記「血染めの機関車」が「大分の空襲」に収録されている。

 「幸崎駅が列車を受け入れたとすれば、大分の空も一応和らいだものと見える。『だが、とにかく気を付けて行って下さい。まだ方々でウロついているらしいです』と、下の江駅長はいったものの、不安気であった」

 体験記はこう書き出す。列車は空から狙われやすく、空襲があるとなると、停車している駅側は早く出て行ってほしいし、次の停車駅は来てほしくない。やっかい者扱いで、先の駅の受け入れを確認して出発する必要があった。

 さて、列車は臼杵市内の下ノ江駅から佐志生駅を過ぎて幸崎駅に向かう途中に襲われた。機関助手が頭を撃たれ、乗客の1人の女性は頭蓋骨の半分を飛ばされて、車内は脳みそが散乱した。こんな体験が「血染めの機関車」につづられている。

 佐伯市の空襲の状況はどうだったか。「大分の空襲」に「ある佐伯市職員の日誌」がある。

 3月18日午前5時30分、突如警戒警報発令。同7時5分空襲発令、B29単機西方(竹田方面か)に向かったので解除。午前8時30分頃、小型機(グラマンか)来襲、主力は佐伯航空隊へ、一部は市内民家へ機銃掃射反復。市役所会議室からのぞいていると、降ってきた薬莢がカランコロンと民家の屋根瓦で踊っていて……。

 5月13日午前7時20分、30数機、12時頃30数機、13時15分頃約50機、同30分頃2、30機、以上グラマンの来襲引きも切らず、掃射、投弾して防備隊を襲う。防備隊反撃の術もなく、30分余にして兵舎並びに施設のほとんど壊滅。

 7月24日。空襲相も変わらず続く。午前10時と午後の2時、小型機20機余り、2度にわたって航空隊周辺に投弾。爆撃目標がまだあるのかと疑いたくなる。

 以上、ある佐伯市職員の日誌の一部を引用してみた。米軍の空爆は沖縄上陸のために九州の軍事施設をたたくことから、その後、より広範囲となり、一般市民の被害が拡大。7月16日のB29の波状攻撃によって大分市は一面の焼け野原となった。

 大分の空襲はさまざまな人間の、それぞれの立場、場所での体験を数多く集めた。

 とはいえ、すべての人の体験を網羅したものではない。これをとっかかりに第2弾、第3弾を、との考えもあったのではないか。だが、それは果たされなかった。

 戦後30年で当時、戦争体験の風化が語られていた。東京空襲を記録する会を発端に、各地記録運動が起きたのは、体験の風化に対する危機感からだった。大分の空襲を今読めば、そこに盛り込まれた数々の体験談はなお生々しい。終戦の日にこの本のことがもっと語られていい。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です