4月26日の佐伯駅は

 1945(昭和20)年4月26日。米軍の攻撃が佐伯城址(城山)の麓に広がる住宅街に及び、投下された爆弾で28人の市民が即死した。

 前日(15日)の佐伯支局長日誌「お地蔵さんはどこに」で、このことを紹介した。4月26日の空襲については「佐伯市史」にもあり、養賢寺の地蔵尊の写真も掲載されている。

 ただ、佐伯市史の記述は概括的で、空襲の状況を具体的に知ろうとすると物足りない。そう思いながら、佐伯市立佐伯図書館で「佐伯駅四十年史」を手にとってみた。すると空襲による被害の状況が細かく描写されていた。

 今年で開業100年の佐伯駅。駅前には10月に開かれる西日本B-1グランプリの幟がはためく 佐伯駅は今年で開業100年となる。四十年史が出されたのは60年前。1956(昭和31)年12月で戦争の記憶も生々しかったはずだ。

 四十年史は薄い小さな冊子である。空襲と敗戦の際に記録が失われてしまい、どうしようもなかったと当時の駅長は書いている。

 それでも資料を提供してもらうなどして作り上げたという。四十年史は資料編を含め7項目あり「空襲、敗戦と佐伯駅」はその一つだ。

 書き出し部分をかいつまんで紹介してみる。

 「3月18日のグラマン機による初空襲以来、事態は日を追って悪化した」

 「豊後水道を通過する敵機を監視するため、佐伯駅本屋の屋根に対空監視所が設けられ、刻々の状況を大分鉄道防空本部へ通報した」

 同時に「駅広場や構内に待避用の防空壕を作り、後には平野区のみかん山の中腹に大規模な横穴を掘った」。例えば「広場(便所前)」「上りホーム及構内線路間」「上下ポイント小屋及信号機」に「たこつぼ」を作った。

 そして、4月26日を迎えた。この日午前6時頃、小雨の空から投下された巨大な一弾は、駅前に美観を誇るミナト屋旅館を直撃した。

 一瞬にして同旅館は真っ二つに大破して見る影もなくなり、爆弾の破片は一団となって佐伯駅に襲いかかった。一番間近な貨物室の窓ガラスは木っ端みじんとなり、室内にあった金庫に穴が空き、壁や柱に無数の弾片が貫通するものすごさだった。

 次に駅長室の配電盤はメチャメチャに壊れ、出札室切符箱は吹っ飛んで切符がばらばらに飛び散るという騒ぎ。その他待合室、小荷物室、運転室なども同様に、土壁が落ち、板や柱に穴があくという散々な有様だった。

 四十年史は上記のように書いている。この日の空襲が佐伯駅最大の被害となった。

 空襲の記録はさらに続く。

 5月に入ると沖縄の戦局は最悪の事態に陥り、敵機の来襲は激しさを増した。5月10日と11日は続けてB29が来襲して投弾し、13日は早朝から空襲警報が鳴り響いた。

 第1回の午前7時20分はグラマン35機、第2回の午後0時はグラマン35機、第3回の午後1時15分はグラマン50機、第4回の午後1時16分はグラマン230機と段階的に数を増して来襲した。特に後半の2回は小型爆弾及び焼夷弾の雨が航空隊及び防備隊に浴びせられ、防備隊はわずか30分の間に戦力を失った。

 6月は小康状態を保っていたが、いよいよ7、8月の断末期がやって来た。四十年史の「空襲、敗戦と佐伯駅」はさらに続く。

 佐伯市が攻撃されたのは海軍航空隊があったからで、佐伯に航空隊が置かれた経過については7月4日の佐伯支局長日誌「ホノルルと友情都市宣言~戦後71の夏①」にも書いた。

 1931(昭和6)年、海軍省は九州東海岸に一カ所航空隊を置くことにした。佐伯市史によると、佐伯のほかに日岡村(大分市)、富高(宮崎県日向市?)、志布志(鹿児島県)が候補となった。このうち佐伯と富高が有力で、激しい競争となったが、最終的に佐伯に決まった。

 終戦後、旧海軍の広大な土地はどうなったか。佐伯市の誘致運動が実り、興国人絹が広い土地を購入して1953(昭和28)年にパルプ工場の操業を開始した。

 46(同21)年には二平合板がいち早く佐伯市で操業を始めており、56(同31)年には臼杵鉄工佐伯造船所が操業を開始した。

 「この戦後派の三大企業は臨海型の装置工業で、立地条件に適した敷地をたやすく入手し、労働力を得やすい時期に進出したので、社会的にはむしろ歓迎されこそすれ、何らの抵抗もなく操業が始められた」と佐伯市史にある。

 特に興人は「大分県下では大企業進出のナンバーワンであり、佐伯市にとっては軍都から工業都市に生まれ変わる主役としての希望を抱かせた」と佐伯市史。「ところが操業を始めて10年たったころから、パルプの廃液によって海水の汚濁が問題になり始めた」。そして「ついに大分県での公害問題でのさきがけとなってしまった」。佐伯市史が発行された1974(昭和49)年ごろはまだ問題がくすぶっていた。

 その後、幾度も産業構造転換の波がやってきた。地域経済に大きな存在感を示していた企業も波に呑まれた。その様相は大きく変わった。

 その中で今、佐伯市はどんな将来像を描いているのか。キーワードは食と観光である。お隣の宮崎県延岡市と連携して美食のまちづくり(東九州バスク化構想)を掲げている。

 「美食」の旗を掲げたからには簡単に下ろすわけにはいかない。頑張るしかなさそうだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です