キリシタンと南蛮文化

 臼杵市野津町下藤地区をあっちに行ったりこっちに行ったり、キリシタン墓地の案内板は小さかった。クルマで地区内の道路を上り下りするうちに小さな案内板を見つけた。案内板の矢印通りに更地に沿った狭い道を進むと、その先に何か見えてきた。そこが「大分県史跡指定下藤地区キリシタン墓地」。なぜ、ここを訪ねたのか。キリスト教の伝来から隆盛、迫害に至るほぼすべての歴史が臼杵市にある遺構群によって分かる。手にした資料にそう書かれてあった。ならば訪ねてみようかと考えた。

 その資料とは何か。臼杵や津久見など大分県内7市の関連施設を巡るスタンプラリー「おおいた キリシタン 南蛮ドラマ スタンプラリー」のスタンプ帳と一緒に津久見市民図書館に積んであったものだ。あんまり好みのデザインではないが、とりあえずもらっておこうと資料とスタンプ帳を1つずつ持って帰った。

 これを思い出したのは、8月25日の佐伯支局長日誌のために前大分県知事の平松守彦の「音楽風土考」を読んだから。キリシタン弾圧の中で賛美歌が「歌おらしょ」として口承伝承されたことに注目。この地下水脈が明治期に地表に噴出し、大分から多数の作曲家、音楽家を輩出する原動力となったと推論している。

 スタンプラリーに添えられていた資料あらためて持ち帰っていた資料を取り出してみた。この中に下藤地区キリシタン墓地の説明があった。日本で初めてほぼ完全な形で発見された国内最大規模のキリシタン墓地。江戸幕府のキリスト教禁教令下で全国のキリシタン墓地が破壊されるようになったが、下藤地区は破壊を逃れた。

 下藤のキリシタン墓地にはどんな人たちが眠っているのかどんな人たちが眠っているのか。現地の説明板に書いてあった。下藤村の地侍(村長格の武士)でキリシタンであった「リアン(洗礼名)」が、キリシタンとなった村人のために、天正7(1579)年頃に造ったものと考えられるとある。

 説明板には、墓地は約500㎡の敷地の中に66の墓のほか、石を敷いた広場と礼拝の道、小さな建物が造られていることが分かりましたとも書かれている。全体の見取り図も添えられているが、素人目にはよく分からない。合掌し、頭を下げてその場を後にした。

 石の前面右の方に「十字」が浮かび上がっている野津町の磨崖クルスも有名である。国道10号のすぐ横にある。そばに説明板があった。「円の中に雲形台に乗った干十字章を陽刻したものである」「成立年代は不明であるが、大友宗麟が豊後を治めていた時代に、野津院寺小路村にあったとされる到明寺を教会として使用していたと言い伝えられており、そのころに作られたものではないかと思われる」

 岩の上に何かあると思って、見ると餅が置いてある。誰かがお供えしたものだろうか。

 国道10号をもう少し南に行くと「キリシタン地下礼拝堂」がある。国道沿いにあった臼杵市の観光案内板に書かれていたが、こちらは場所が分からなかった。それとおぼしきところをクルマで行ったり来たりしたが、案内板のようなものも見つけられなかった。

 野津町で訪ねた遺跡・遺構はスタンプラリーの対象ではない。7市町のスタンプラリー対象施設対象は7市町の14施設。スタンプ帳をもらった津久見市民図書館も入っている。2014(平成26)年2月、大分市、国東市、臼杵市、津久見市、竹田市、日出町の6市町で「キリシタン・南蛮文化交流協定協議会」を設立した。大友宗麟、キリスト教、南蛮文化にかかわりがある自治体が協力して情報発信していこうというものだ。これに由布市が加わった。

 これまで首長サミット開催やFacebookの開設、今回のスタンプラリーとやってきた。狙いは観光振興である。こうやって大分県内を巡って行けば、キリスト教の伝来と隆盛、迫害、弾圧の歴史、南蛮文化の栄華と衰退が手に取るように分かる―。そんなガイドブックが作られ、周遊ルートができれば巡ってみたい。

 そして、キリスト教と南蛮文化の影響は今にどう引き継がれているのか。大分県民の気質形成にどうかかわってきたのか。興味深いテーマが数々ある。いろんな仮説や推論を聞かされるだけでも面白い。「なぜ、下藤地区の墓地は破壊を免れたのか」。小さい、細かいと思えることも聞いてみたい。

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