市史に見る突きん棒漁

12日のイベントを知らせるポスター 5日の土曜日に臼杵魚市場の海鮮朝市に行くと、ポスターが貼ってあった。12日の朝市の予告である。メインイベントに「地元風成の突棒漁師が獲ったカジキマグロの解体ショー」とある。カジキマグロの解体については既に聞いていた(11月2日付佐伯支局長日誌「迷路のような道と街」)。ポスターを見て初めて知ったのは、数少ない臼杵の突きん棒船が風成(かざなし)地区から出ていたことだ。

 海鮮朝市に参加する業者は以前はもっと多かった。そんな話を聞いたことは11月2日付日誌に書いた。

 ということは朝市に通い始めた今年3月頃は既に尻すぼまりの状態にあったわけだ。それでも新しい魚が買えるから個人的には構わないが、ここに来て漁協が朝市のてこ入れに乗り出すようだ。

 カジキマグロの解体ショーはその第1弾というわけだろう。当日は漁協青年部による新鮮な魚介類の販売もあるというから、これにも期待したい。

 さて、突きん棒漁とはどういうものか。手頃な資料として手元にあるのは「臼杵市史」ぐらい。「文化」「民俗」をまとめた臼杵市史(下)に「「浦々の漁法と習俗」についてのまとめがあった。 

 市史を読むと、まず「臼杵市の海岸部の浦々の主要漁法はそれぞれに違っていた。一つの浦でも季節によって漁が違い、時代的変遷も大きい」とあった。

 臼杵湾の南側に板知屋、風成はある突きん棒漁については、市史には明治初頭、風成と板知屋(いたちや)、それに保戸島(ほとじま、津久見市)で始まったとある。豊後水道に夏に回遊してくるカジキを突いていたのであると説明が続く。

 板知屋、風成は臼杵市のどこらあたりか。愛用する大分合同新聞社発行の「新・大分県万能地図」の一部を複写して利用させてもらった。

 この地図で赤い丸の上に臼杵市役所と書かれているのが分かるだろうか。ここから東へ長目半島を行くと「板知屋」の文字がある。風成は板知屋から少し行ったところ。 地名で言えば「板知屋」「大泊」「風成」「深江」となるようだ。

 市史によると、突きん棒船は全長約7.5m、4~6人乗り込み、帆と櫓(ろ)で帆走する。カスミモリという先端が銛状の三つ叉の突き具を使用していた。

 1897(明治30)年には対馬沿岸で操業するようになった。大正期(※大正元年は1912年)には動力船が普及し、通年操業ができるようになり、漁場は三陸沖、五島、壱岐、対馬周辺に及んだ、と市史にある。

 残り少なくなったとはいえ風成には明治以来の伝統が息づいているわけだ。「風成」といえばもうひとつ思い出すものがある。作家松下竜一氏(故人)の著書「風成の女たち ある漁村の闘い」である。

 どんな話か。大分県立図書館のウェブサイトに「臼杵市で起きた風成闘争とはどんな闘争か」の説明があった。1968(昭和43)年にセメント工場の誘致話が起こり、翌年、風成地区の目と鼻の先の海を埋め立ててセメント工場の建設用地とすることになった。

 70(同45)年に誘致が正式に決まったが、工場に隣接する風成地区から、粉じん公害を受けるとして強い反対運動が起こり、この動きが全市に広がった。

 だが、工場建設の動きは続き、翌年、埋め立てのための測量が始まる。風成地区の反対派の住民は激しく抗議し、とりわけ主婦たちは、厳寒の降りしきる雨の中、雨がっぱの上から腰に荒縄を巻き付けて、海上の二つの作業用に座り込み、作業を阻止しようとした。

 最終的に風成の漁民は裁判に勝ち、工場建設は断念されることになった。図書館の説明文は「風成闘争は日本の公害予防運動史上極めて大きな意義を持つ闘争といわれています」と結ばれている。

 昔読んだ「風成の女たち」の記憶は今や漠然としか残っていないが、だいたい県立図書館の説明文にあった内容だった気がする。

 手元にある臼杵市史を見てみる。風成闘争は臼杵市史(中)に書かれている。それを読むと、実際の反対運動にはさまざまな立場の人間の思惑や利害が複雑に絡み合っているように思える。

 そのあたりを「風成の女たち」はどう描いていただろうか。もう一度読み直してみたい。

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