児童の工場見学に同行

 市街地の煙突がセメント工場の場所を示す津久見は石灰とセメント産業を抜きには語れない。「大正6年桜セメント九州工場の操業開始」と津久見市誌にある。大正6年とは1917年。来年は津久見でセメントの生産が始まって100年の節目を迎えるわけだ。同市の「ふるさと教育」の一環で、市内の小学6年生が鉱山とセメント工場を見学するというので、同行させてもらうことにした。

  市街地に赤と白に交互に塗られたひときわ高い煙突が写真にあるのが分かるだろうか。これで太平洋セメント大分工場の所在地が分かる。

 胡麻柄山の展望台から市街地を望む写真の左端に切り立った崖のような場所がある。見えるだろうか。石灰石を採掘された後の水晶山である。きれいに削り取られている。

 市街地を見おろす展望台があるのは胡麻柄山。展望台は標高450mだそうだ。今石灰が採掘されているのはこの山である。採掘場所は標高250m。4社で年間2400万トンを生産している。そのために採掘場所は毎年15mずつ低くなっているという。

 石灰石の推定埋蔵量は45億トンあり、余力は十分だそうだ。展望台からは採掘場を一望できるが、写真撮影はNGだった。かつては採掘現場も見学させていたようで、現場を上から見るだけでは正直物足りない感じだ。

 工場に集合し、胡麻柄山の展望台で鉱山を見学した子どもたちは再びマイクロバスで工場へ。まずは工場で再利用されている廃棄物を見学する。この工場には熊本地震で壊れた家屋の廃材や廃畳が日量30トン運ばれてくるそうだ。それを粉砕して石炭代わりの燃料に使う。

 廃プラスチックや廃タイアの置き場も回る。ゴミの焼却灰も利用しており、遠く東京23区からも焼却灰を受け入れていると説明があった。

 予熱装置の前に立つ子どもたちここまでバスで見て回り、最後にセメント工場を象徴する施設で子どもたちはバスを降りた。そびえ立つ施設はセメント原料の予熱装置(プレヒーター)。原料がここを落ちながら温度が上がっていく。子どもたちの横を走る太いパイプがロータリーキルン(回転窯)。1450度まで温度を上げて原料を焼いていく。そんな話だった。

 キルンの内部をみるための窓が高温で焼かれているのを確認するための窓もあった。この工場は従業員約170人で年間約500万トンのセメントを生産している。協力会社の従業員を入れても合計400人ぐらいという。コンピューターによる集中管理や機械化を進めて、人を減らし、生産効率を上げた。その結果、国内に工場を残せたということになる。

 セメントの黄金時代はいつか。やはり戦後である。津久見市誌には小野田社(太平洋セメントの前身の一つ)は1949(昭和24)年、51(同26)年、52(同27)年と増資を続け、旺盛なセメント需要の答えるために活発な設備投資を行った、とある。

 ちなみに51年の生産能力は月産4万4000トンで従業員726人と市誌にある。当時は肥料・砂糖・セメントの白い粉にちなんで「三白(さんぱく)景気」と呼ばれたとも市誌は書いている。その後も好況が続くが、東京五輪(1964年)後に不況がやってきた。

 労使紛争が激化し、公害もクローズアップされた。セメント産業の光と影の影の部分が大きくなった。その後から現在までを語れば長い歴史がある。

 来年がセメント生産開始から100年ならば、その歴史を振り返るのに区切りがいい。きっと津久見市も来年に向けて何か考えているはずだ。

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