猪熊画伯 私の履歴書

大分県立図書館で借りた2冊 大分県立図書館(大分市)で本を2冊借りた。「私の履歴書 文化人 8」(日本経済新聞社)と「カメラの前のモノローグ 埴谷雄高・猪熊弦一郎・武満徹」(マリオ・A 聞き手・写真 集英社新書)。佐伯市立佐伯図書館では見つからなかったので県立図書館に向かった。佐伯市でのエピソードは私の履歴書に書かれていた。

 「履歴書」は1979(昭和54)年1月の日経新聞に掲載された。最初に猪熊は「私は四国の讃岐の田舎に生まれ、東京で絵を勉強し、パリに渡り、戦後は20年ほどニューヨークに暮らした」と、これまでの歩みを簡単に紹介している。

 この著名な画家と佐伯の関係は、11月21日付佐伯支局長日誌「猪熊弦一郎が愛した町」で紹介した。それは受け売りだったのだが。

 そこで本人が書いたもので確認しようと思った。私の履歴書の連載は27回。おおざっぱに分類すると2回から10回が郷里の思い出、11回から14回が東京美術学校(現東京芸大)受験と学生生活、15回から20回がパリ行きとマチスとの出会い、21回から23回が従軍画家としての体験が綴られる。

 1955(昭和30)年に渡米し、20年ほど続いた米ニューヨークでの生活は最後の2回ほどで、最終回の27回は「本当の自分」のタイトルがある。

 佐伯の文字が見当たらないなと思いながら、読み進んでいくと「パリへ」とタイトルが付いた15回目の連載にあった。

 「胸を悪くしたこともあり、学校でこれ以上勉強しなくてもいいという気持ちが次第に芽生えてきて、思い切って学校を中退した。そして結婚した。妻の文子とは一目惚れで、ささやかな生活を洗足で持つことになった。大正15(1926)年のことである」

 猪熊翁は1902(明治35)年生まれ。1993(平成5)年に没した。1926年といえば24歳で新進気鋭の画家というわけだ。履歴書の話はさらに続く。

 「ところが間もなく、妻の母、片岡房子が郷里大分の佐伯で病気になった。東京の家をそのままに二人で九州へ飛び日夜看護に当たった。寝たきりの母は、懐かしいふるさとの野や山、町のたたずまいがみたいというので、私が母の思い出の風景を写生してはみせてあげた。その甲斐もなく母はやがて亡くなった。母のために描いた絵がかなりたまった上に、それまで描きためた作品もあったので大分で最初の個展をやることになった」

 画家としての初期の作品が佐伯で生み出され、佐伯で所蔵され、今回展示されることになった。12月4日から18日まで、佐伯に残った作品十数点が文子ゆかりの片岡邸で一般公開される。これは11月21日付の日誌で紹介した。

 ※佐伯滞在中の猪熊画伯の作品が展示されるのかと思ったが、そうではなかった。詳しくはまたお知らせしたい。

 興味深いのは従軍画家時代である。猪熊夫妻は欧州から日本への最後の避難船「白山丸」に乗って1940(昭和15)年に帰国した。翌41(同16)年に軍部から従軍命令が出た。最初は中国へ、次はベトナム・サイゴンへと派遣され、フィリピンに渡る。戦争の記録画を描くためにマニラに待機し、コレヒドールの陥落を待って現地に入った。

 その模様は筆舌に尽くしがたいものだった。猪熊の従軍画家としての仕事はこれで終わらない。今度はビルマ(現ミャンマー)へと派遣される。そこで泰緬(たいめん)鉄道の建設を記録せよと言われてジャングルの奥へと進む。

 最前線の宿舎のあたり一帯ではコレラが蔓延していたと猪熊は書く。猪熊はここで腎臓を痛め、その後、日本で大手術を受け九死に一生を得た。

 その前のパリではドイツ軍の攻撃を受けた。若者が次々に出征していくのも目の当たりにした。

 猪熊の人生にも戦争が大きな影を落としている。「カメラの前のモノローグ」のマリオ・Aは、従軍画家時代の話をあまり聞き出せなかったようだ。

 私の履歴書は人生の一部。語られなかったことの方が遥かに多いのかもしれない。

 

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