吉四六さんの発掘者は

吉四六かるたが並べられた 第22回吉四六かるた大会が9日、臼杵市野津町の野津中央公民館で開かれた。大会は5歳の部と小学校1、2年の部、3、4年の部、5、6年の部に分かれて予選、決勝と進む。会場にはたくさんのトロフィーが用意されていた。子どもたちが取り合うかるたに描かれた吉四六(きっちょむ)さんと言えばとんち話である。来たついでに公民館2階の臼杵図書館野津分館で吉四六さんに関する資料を探してみることにした。

 吉四六さんは佐伯支局長日誌でも何回も取り上げている。「吉四六さん」と打ち込んで検索してみると昨年5月の日誌で3回、6月の日誌で2回、その名前があった。

 例えば吉四六ランドに行った5月28日付日誌「アジサイとツツジの競演」では、吉四六さんのモデルについて江戸時代に実在した廣田吉右衛門と紹介している。

 吉右衛門は代々引き継がれた名前で、初代は寛永5(1628)年生まれで88歳で亡くなったとされる。吉四六さんのモデルはこの初代の吉右衛門ではないかとされている。

 近くにある普現寺の資料に「吉ヨム」という人物についての記載があるそうだ。「檀家の人物で奇人ながら、その最も名声が高いのは俗に吉ヨムと呼ばれる広田吉右衛門。彼の奇矯、とんちに富んだ数々の逸話は至る所に鳴り響き、野津市といえば吉ヨム、吉ヨムと言えば野津市と誰の頭にも連想され……」などとあるようだ。

町のあちこちに吉四六さん話がある 図書館で見つけた「豊後野津町の奇人 吉四六話新編第3集」にあった。発行所は野津キリシタン記念館。編者は奈々木山人とある。発行は1970(昭和45)年3月だった。この資料の最初にNHK大分放送局が制作したラジオ第一放送「午後のロータリー」の放送内容が書かれている。

 吉四六さんと吉四六話について語られた部分で、語り手は3人。マリーパレス社長の上田保と竹工芸の人間国宝の生野祥雲斎、もう一人が安藤一馬とある。上田保氏は戦後大分市長になり、高崎山でサルの餌付けを始めたことで有名である。市長を退いた後、大分生態水族館マリーンパレス初代社長になった。生野氏に代表される竹工芸は別府の特産品である。

 さて、安藤一馬とは誰か。アナウンサーが番組中に「安藤さんは吉四六話の本場である野津町にお住まいで、教職の傍ら、長い間吉四六さんの研究をなさって」などと紹介している。吉四六研究の当時の第一人者だろうか。

 番組が放送されたのが1967(昭和42)年4月22日とこの資料には書いてある。聞き手のアナウンサーが「吉四六話を聞いたことがありますか」と尋ねる。上田、生野両氏ともあると答えるが、その数は少なかったと安藤氏が言っている。

 「数が多くなったのは宮本清さんが大分合同新聞社から『吉四六物語』を出して」と話が続く。それが基になってもてはやされるようになり、東京書籍発行の小学3年生用教科書「あたらしいこくご」に「重い荷物」「ないしょ話」の二つの話が採用されたという。

 宮本氏は大分合同新聞記者を長く勤め、その間、多くの吉四六話を〝発掘〟した。1963(昭和38)年にいわば集大成として230話の吉四六話を収録した本を出版。その前書きに大正14(1925)年に新聞紙上に(吉四六話を)発表、昭和2(1927)年に単行本を出し-などとある。

  宮本氏は精力的に吉四六話を発表していく。安藤氏は多くが吉四六さんを主人公にした宮本氏の創作に近いのではないかと考えているようだ。

 実際に宮本氏も自著の前書きで「集めた材料の持ち味をできるだけ保ちながらも、適当に組み立てたり、脚色したり、削ったり」などと述べている。

 安藤氏も吉四六さんを主人公にした話をつくったことがあると話している。別に歴史と伝統、正統性などと難しいことを考えることもない。新作の吉四六話をみんなでつくって楽しんでもよさそうだ。それが新たな吉四六ブームにつながるかもしれない。

 ところで、安藤さんはキリシタン類別帳や続豊後切支丹史料を基に、広田吉右衛門について「初代以前に吉右衛門がいた」「その吉右衛門はキリシタン信者」などと書いている。だから「吉四六さんもキリシタン?」と読者に問いかけている。

 豊後切支丹史料を刊行した人物といえばマリオ・マレガ神父。神父は大分県などで多くの資料を収集し、バチカンに送った。その資料が最近、バチカンで見つかり、臼杵市も協力して詳しい調査が行われようとしている。その過程で吉四六さんのモデルとされる吉右衛門にも新たな光があたることになるかもしれない。

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