下藤キリシタン墓地の謎

草も枯れて全体が見渡せる下藤地区キリシタン墓地 3月5日付佐伯支局長日誌「マレガ神父の戦争体験」で書いたマレガ・プロジェクトと臼杵市による合同の公開研究会では2人が報告に立った。一人は5日の日誌で紹介した京都外大のシルヴィオ・ヴィータ教授であり、もう一人は臼杵市教委の神田高士さん。神田さんは「キリシタン墓碑の様相から見たキリシタン統制」と題して報告した。テーマとなるのは同市野津町で完全な形で発見された下藤地区キリシタン墓地はなぜ、400年もの間、破壊を免れたのか。その謎を解明しようという研究である。

 写真奥に青い屋根の小屋が見えるだろうか 臼杵市教委の発掘調査で確認されたのは65基の墓標だという。それらは一つを除いて埋め戻されている。阿蘇溶結凝灰岩でできているからと神田さんは説明した。大昔の阿蘇山の大爆発によってできた岩石で凍結に弱いのだそうだ。野津町は内陸部にあり、冬の冷え込みが強い。寒さによる損傷から墓標を守る必要がある。

十字紋と洗礼名が書かれた墓碑 一つ残されて地表に置かれているものは青い屋根の小屋の中にある。1956(昭和31)年に発見された。半円柱型(かまぼこ型)の石の表面に十字紋と洗礼名の「常珎(じょうちん)=ジョアキン」が刻まれた墓碑である。ここにキリシタンの墓地があることは地元では昔から知られていたという。

 というのも、このキリシタン墓地を囲むように仏教墓地が造られていったのだという。下藤地区にキリシタンの墓ができるのは1580年頃で、その後40年か50年ぐらいにわたり、墓地が広げられていったのでないかと神田さんらは考える。墓地には礼拝堂やそこに至る道もあったようだという。

 江戸幕府によるキリスト教の禁制が進むとともに下藤地区で新たなキリシタン墓はつくられなくなった。ただ、江戸時代から明治初期まで続く長い禁制期があったにもかかわらず、キリシタン墓地そのものは破壊もされずに完全な形で姿をとどめてきた。

 それは臼杵藩と地元でひそかな約束があったからではないか。密約説も考えられる。そんなことを神田さんは言う。美濃(岐阜県)から臼杵に移ってきた稲葉家は統治を円滑に進めるために、各地域の有力者を手なずける必要があった。そこで両者が裏で取引をしたというストーリーである。

 残念ながら推測、臆測の域を出ない。そこで神田さんが期待するのがマレガ文書である。マリオ・マレガ神父が収集した臼杵藩の史料から手がかりになるものが出てこないか。マレガ文書の調査、整理、保存を進めるマレガ・プロジェクトに参加する研究者への期待は大きい。

大分県内にあるキリシタン墓 下藤キリシタン墓地が発見された意義は何か。キリシタンの墓とはどういうものか、判定する明確な基準ができたということだそうだ。実はマレガ神父もキリシタンに関連した遺跡・遺構調査を行い、キリシタンのものと思われるものを発見、と当時の新聞に紹介された。これは現在の研究ではキリシタンに関係したものではないことが明確になっている。

 キリシタンの墓の基準、特徴が「下藤」によって明らかになったことで、もう一つ興味深い事実が見えてきた。キリスト教の禁制期も、その特徴が長崎などで継承され、今日に至っていることが分かってきた。キリシタン墓の「遺伝子」「DNA」はどのように伝えられていったのか。ここにも解明すべき謎があるという。

 神田さんは墓碑から見ると、キリシタンに対する容赦ない弾圧をした為政者という私たちが抱いているイメージとは異なるものがあると言う。建前と本音というか、徹底的に追い詰めるのではなく、どこかに逃げ道を残していたということだろうか。

 潜伏キリシタンを摘発した浦上一番崩れから四番崩れまでの話や、その中で、キリスト教ではなく、何か訳の分からない宗教「異宗」にかぶれた集団として当局が処理しようとした話など面白いものは多かった。だが、こちらに基礎知識がないこともあり、正確に紹介できないのが残念だ。

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