CMの早春賦~その後

臼杵城址の近くに移設された歌碑 三井住友海上火災保険のホームページを開き「早春賦」とキーワードを打ち込む。すると、3月12日には気がつかなかった解説があった。CMの挿入歌についての簡単な説明があり、吉丸一昌作の詩が参考として掲載されている。吉丸の孫である吉丸昌昭さんが三井住友海上に抗議の手紙を書いたということは、3月12日付佐伯支局長日誌「CMの早春賦に異議あり」で紹介した。その対応がこの解説ということだろうか。

 3月12日に臼杵市の大手門公園で吉丸一昌の銅像の除幕式があった。孫一同を代表して挨拶に立った昌昭さんがお礼の言葉の最後に付け加えたのがCMの話だった。「早春賦の歌を変えてしまったのは悲しいことです」と。

 吉丸一昌にも、その作品にももう少し敬意を払ってもらえないかという昌昭さんらの意向を受けて、三井住友海上も昌昭さんと話し合い、しかるべく対応したということか。

 歌碑の裏に刻まれた吉丸一昌の生い立ち「春は名のみの」で始まる歌詞はあまりにも有名だが、この歌はどうやって作られたのか。考えてみれば何も知らない。折角の機会だから、もう少し調べてみようと思った。

 とりあえず何か資料はないか。ちょっと検索してみたが、適当なものがない。蔵書が多い大分県立図書館なら何かあるのではと思って行ってみた。そこで手にした本の一つが「唱歌・童謡ものがたり」(読売新聞文化部著 岩波書店刊)。1999(平成11)年8月発行とある。

 本を開くとまえがきがある。親から子へと伝えられてきた名曲の生まれた背景や作曲家、作詞家について紹介しようと1996(平成8)年6月から2年10カ月にわたって読売新聞日曜版で連載したものを1冊の本にまとめた、とあった。

 数えると、春の歌が18曲、夏が19曲、秋は22曲で冬が12曲の計71曲が紹介されている。その冒頭にあるのが「早春賦」だった。

 文章の書き出しは孫である昌昭さんが「信州安曇野の大町南高校(現大町高校)に入学した」ところから始まる。「入学式で渡された校歌の譜面を見て、昌昭は首をひねった。作詞者が同じ吉丸姓なのだ。(略)帰宅して家族に話すと、父の昌武がこともなげに言った。『お前のおじいさんだ』」。それが1956(昭和31)年のことだった。

 昌昭さんは「祖父の業績を知るにつけ、いつか祖父の一代記を、と思うようになりました」と記者の取材に答えている。一昌の業績を掘り起こし、広く伝えることが昌昭さんのライフワークになったということだろう。

 ただ、この本でも肝心の早春賦そのものについての記述は少ない。銅像の設置と合わせて今回移設された歌碑が、もとあった臼杵市中央公民館の敷地に建てられたのは1980(昭和55)年。「このころ『歌の舞台は安曇野』説が定着したことから、84年には長野県穂高町にも歌碑が建った」とあるぐらいだ。

 早春賦は1913(大正2年)年に制作されたという。このころ「新作唱歌」全10巻を世に問うたとある。東京音楽学校教授となり、文部省唱歌の編纂委員の1人となったが、その内容に飽きたらず、新作唱歌を出版することにした。

 新作唱歌のはじめには「本書は児童の音楽遊戯の資材にもとて余が感興の湧くに従って作歌したるものに諸友人が作曲したものなり」とある。早春賦は第3巻に掲載されている。

県立図書館と一緒に先哲資料館がある 吉丸一昌の業績について臼杵市にある歌碑には「我が国音楽教育に大いなる貢献をされ、童謡運動の暁鐘を鳴らされた」と紹介されている。

 ところで、大分県立図書館と同じ建物の中に大分県立先哲史料館がある。ここで「大分の先哲たち 平常展」が開かれていた。

 その中に学問・芸術の分野の先哲を紹介するコーナーがあり、滝廉太郎や久留島武彦らが写真と短い解説で紹介されていた。どういう基準で「大分の先哲」になるのか、詳しいことが分からない。ただ、吉丸一昌を含めて、先哲に名を連ねる資格がありそうな人がもっといそうだ。展示を見ながら、そんなことを思った。

「CMの早春賦~その後」への2件のフィードバック

  1. 吉丸昌昭さんのことを紹介されるのなら、2007年から3年余りにわたって取り組まれたブログを紹介していただくとなおよかったと思いました。
    http://kazumasakenshou.blog91.fc2.com/
    読売新聞文化部『「唱歌・童謡ものがたり』は最近文庫本にまでなりました。しかし、当時の取材力の限界が見られ、到底うのみにできない内容です。〈早春賦〉には1次資料が雑誌『音楽』と『新作唱歌』の2つありますが、前者の方はほとんど取材できていません。だから、船橋栄吉作曲と中田章作曲の2つの〈早春賦〉があり歌詞も微妙にちがうこと、〈待たるる春〉という題もあること、1912年11月2日に作詞されたあと船橋曲・中田曲がほぼ同時期に作られたこと、同年12月14日の土曜音楽会で番外として船橋曲が歌われたことなど、重要な事実はほとんど取材できていません。
    吉丸一昌という人物を読み解く時に最も重要なのは、〈早春賦〉という歌よりも、尋常小学唱歌編纂の歌詞主任だったことです。編纂委員のうちの一人という言い方ではあまりに弱い。吉丸は他の歌詞委員のために作詞基準ともいうべき「作歌参考條目」を起草しています。極論すれば、吉丸と作曲主任の島崎赤太郎がいなければ唱歌〈朧月夜〉も〈故郷〉も〈紅葉〉も誕生していない。この2人が真の功労者なのです。そのことに、臼杵の人、九州の人はしっかり目を向けるべきだと思います。「童謡運動の暁鐘を鳴らされた」という記述はすこし怪しいです。吉丸のそれは本来、創作唱歌運動というべきもので、そこから本居長世や弘田龍太郎や山田耕筰などが育ったのです。臼杵市には、北原白秋記念館のWEBページや、広島市立中央図書館の鈴木三重吉WEBページを参考に、吉丸一昌顕彰WEBページを立ち上げるくらいの積極性を見せてほしいです。
    今後とも吉丸一昌ネタを楽しみにしています。久留島武彦も大好きです。2人の接点はないんでしょうか。

    1.  ご指摘ありがとうございます。なかなか勉強が進んでおりませんが、メールにあった資料などを探して読んでみようとおもいます。

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