もう一つの城下町海添

道の途中に古びた木造の建物があった 大岩に登ったことは26日の日誌で報告した。臼杵城址のすぐ横にある臼杵市観光交流プラザから大岩登山口まで歩いていった。少し歩くと「海添地区」に入る。案内板にはその後にカッコ書きで武家地区とあった。古びた木造の建物の前に立て札があった。建物の裏側に回るとさらに傷みが「中島家長屋門」と書いてある。「当屋敷地は臼杵藩二百石取り上士、中島家歴代の屋敷地である」。「臼杵市でも数少ない貴重な建物」ともあるが、裏に回ると表よりもさらに傷みが激しい。「海添地区」は一時「二王座地区」「臼杵城址・祇園洲地区」とともに「歴史の町臼杵」の表看板の一つとなり、市としてもPRしたようなのだが、いつのまにか観光の表舞台からは消えていく形になった。

昔の生活体験ができる丸毛家住宅 海添地区で今も観光スポットとして残るのは「丸毛家住宅」である。市のホームページをみると、実際にかまどを使ってご飯を炊いたり、まきで湧かした五右衛門風呂に入ったり、現代では体験できない「昔のくらし」を経験できる施設とある。市指定有形文化財で、江戸時代後期の建築様式をとどめる、市内でも数少ない武家住宅の一つと紹介されている。

 丸毛家住宅は最初に目についた中島家長屋門の近くにある。市のホームページには、丸毛家住宅では桜が咲いていたこの辺りは中級武士の屋敷地で、もっと城から離れた海添川に架かる竹尾橋一帯では足軽や鉄砲組の下級武士の屋敷地が形成されていったようだとある。「早春賦」で知られる吉丸一昌は臼杵藩の下級武士だった父角内、母ノブの長男として1873(明治6)年に海添で生まれた。すると竹尾橋付近にその生家があったということだろうか。

 ※追記 あらためて「望郷の歌 吉丸一昌」(吉田稔著)を読むと、吉丸の生家は海添本丁41番地(現キリスト教会)とあった。

 丸毛家住宅の解説を続けると、市が武家の生活様相や文化を理解してもらう公開施設として、また町並み観光の一拠点として活用するために1989(平成元)年に建物の解体修理をした、と市のホームページにあった。

随分と時代を感じさせる建物があった 中島家長屋門がある通りには歴史を感じされる建物がまだある。左の写真の建物もその一つである。正面に回ってみると「築200年旧益田邸」「ます田」と大きく書いてある。通りを歩くと塀や門に武家屋敷の名残が感じられる。小さな説明板が掲示されているところがあった。「城下町歴史散歩」「足立家薬医門」とある。「この薬医門は、江戸時代の津久見・佐伯に通じる本通りに面し」などと説明が書かれている。

中島家長屋門の横に大きな案内板が 武家屋敷のたたずまいを町並み観光に生かそう。そう考えられた時代があったのだろう。最初に見た中島家長屋門の隣に大きな案内板があった。「歴史の町臼杵」とある。臼杵市中心部の大きな地図とともに海添地区(武家地区)、二王座地区(武家地区)、臼杵城址・祇園洲地区(武家地区)の3地区について解説がある。

 案内板が作られ、設置されたのが昭和63(1988)年3月とある。ほぼ30年前のものだ。地図をみると、中島家長屋門からそう遠くないところに「北野家長屋門」と表示がある。丸毛家からさらに先に「殿町武家屋敷」というのがある。

 今、臼杵市観光情報協会のホームページで「北野家長屋門」「殿町武家屋敷」と入力しても何も出てこない。ただ、地図に書いてあるということは、当時は町歩き観光の立ち寄り場所の一つになっていたということだろう。

 その後、海添地区は主要な観光スポットからは外れていく。その間、何があったのだろう。機会を見て詳しい人に聞いてみたい。

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