ヤン・ヨーステンは?

臼杵市の黒島で開かれた記念式典 在大阪・神戸オランダ総領事夫妻を招いてオランダ船「デ・リーフデ号」の来航記念式典が19日、臼杵市の黒島で開かれた。417年前のこの日、オランダ出港から2年近い歳月をかけてリーフデ号がたどり着いた。そして、日本とオランダ(蘭)交流がここに始まった。そのことを改めて広く語り継いでいくために装いも新に式典を始めた。それはいいが、一つだけ腑(ふ)に落ちないことがあった。

 リーフデ号はどうして豊後(大分県)にやってきたのか。国立国会図書館の「江戸時代の日蘭交流」にある説明は以下の通りである。

 ●日本とオランダの400年にわたる交流は、慶長5年(1600)に始まる。この年の3月(1600年4月)、豊後国臼杵(現大分県臼杵市)の海岸に1隻の外国船が漂着した。これが、日本に到着した最初のオランダ船リーフデ号である。

 ●リーフデ号を含む5隻のオランダ船は、1598年6月、東洋を目指しロッテルダムを出港した。船団は南アメリカ南端を回って太平洋に入るコースをとったが、嵐やスペイン・ポルトガル船の襲撃にあい、東洋までたどりついたのはリーフデ号のみであった。

 ●少数の生存者の中に、船長クワケルナック、高級船員ヤン・ヨーステン、三浦按針上陸記念碑の前に設けられた献花台イギリス人航海士のウィリアム・アダムスらがいた。彼らは、政治の実権を握っていた徳川家康の命で大坂(現大阪)に召し出され、その知識により重用されることになる。ヤン・ヨーステンは朱印状を与えられ貿易に活躍、江戸の居住地はその名をとって「八重洲河岸」と呼ばれるようになった。

 ●アダムスは家康に信任され、外交顧問としても活動、与えられた知行地と水先案内の職務により、「三浦按針」と称された。

 長々と引用したのはなんのためか。記念式典には、乗組員110人のうち生き残ったのは18人という過酷な旅で命を落とした乗員を追悼するとともに、日蘭交流の始まりを祝う意味がある。

赤いカーネーションが献花台に置かれた そこで献花台が設けられ、総領事夫妻など関係者が花を手向けた。ただ、献花台が置かれているところを見ると、三浦按針上陸記念碑の前である。何だか一人だけ献花されているようで、しかも三浦按針ことウイリアム・アダムスは英国人。ヤン・ヨーステンなどオランダ人は「なぜ、あいつだけが」と思いながら草葉の陰から見ていたかもしれない。

 これは冗談だが、三浦按針に比べてヤン・ヨーステンの影が薄いのは否めない。臼杵には「按針音頭」や「按針太鼓」があるそうだ。

 しかも、昨年4月に臼杵市で計画されたのは「ANJINサミット」。三浦按針にゆかりの長崎県平戸市と静岡県伊東市、神奈川県横須賀市と臼杵市が協力をして、按針の功績を顕彰し、広く内外に発信することなどを目的としている。

 苦難の旅をともに生き抜いたウイリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステンだが、現代では知名度に大きな差ができたようだ。

 二人の仕事の違いもある。「ヤン・ヨーステンは朱印状を与えられ貿易に活躍」。これに対し「アダムスは家康に信任され、外交顧問としても活動」。ヨーステンは貿易に飛び回っていたから、日本国内にはゆかりが少ないということだろうか。だから親しみが湧きにくいと。

 さて、臼杵市でのANJINサミットは熊本地震が起きて中止した。このサミットでは「リーフデ号は臼杵を目指して来航したのであって、漂着ではなかった」と宣言する予定だった。

折に触れて駐日オランダ大使による記念植樹も リーフデ号の到着、アダムス、ヨーステンの活躍によって英国、オランダとも平戸に商館を開いた。しかし、英国との関係はまもなく途絶え、オランダとの関係が江戸時代を通じて続いた。そして、オランダから長崎を通して入ってくる技術や知識がその後の日本の近代化を支える基礎ともなった。

 ヨーステンらオランダ人にももっと光が当てられてしかるべきではないか。日蘭交流を祝う式典を見ながら、そんなことも考えた。

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