72年前の4月26日に

道の反対側から養賢寺を眺めた 佐伯市城下東町にある養賢寺の辺りを歩いてみた。街路の八重桜も盛りを過ぎつつある。道を渡ってお寺に近づくと、大きな案内板があった。「この寺は慶長十年(1605)佐伯藩初代毛利高政公が鶴屋城の創築及び城下町づくりと時を同じくして、毛利家の香華院(菩提寺)として創建したもので」と説明が書かれている。ただ、養賢寺に行ったのは400年以上前の出来事を知るためではない。72年前の4月26日を振り返るためである。

 1945(昭和20)年4月26日に何が起きたか。「大分の空襲」(大分の空襲を記録する会発行)を引用して2016年8月15日付「お地蔵さんはどこに」と翌8月16日付「4月26日の佐伯駅は」の2本の佐伯支局長日誌で紹介している。

 「昭和二十年四月二十六日、佐伯航空隊を襲ったB29編隊の雲上爆撃で、即死者二十八名を出した民間人の慰霊碑が、養賢寺の境内にひっそりと祭られている」

 「この佐伯市で防空壕に避難していた市民たち二十八人(一説では四十人)が、B29の雲上盲爆で、その一弾が斜めに壕(ごう)底をすくって下から噴き上げ、一挙に即死する惨事が起きたのは四月二十六日の朝だった」

 B29とは米軍の大型爆撃機である。その無差別攻撃によって犠牲になった市民らの慰霊碑が養賢寺にある。そのことがもしかしたら忘れ去られようとしているのではないか。多くの市民が知らない過去になっていないか。そんな心配もあって昨夏、佐伯支局長日誌で紹介することにしたのだった。

 「大分の空襲」の引用をもう少し続けたい。改めて「大分の空襲」を開いてみた一人の小学校長の体験談になる。養賢寺の近くに自宅があった。当時校長は住んでおらず、姉夫婦と校長の二女、長男の4人が暮らしていた。校長は鶴見村(現佐伯市鶴見)に赴任していたが、当日は佐伯市で会議があり、船で市内に向かった。港に着くと「警防隊員の一人が待ち構えていたかのように近づいてきた」。そして、自宅へと連れて行かれる。

 現場に着いてみると「土手下に人だかりがしている。その人がきの松枝に、異様なかたまりがぶら下がっている。何と説明されようと、それが人間の下半身だとは思えない。引き裂かれ、葉をむしられた松枝は、血と肉と、色とりどりの端切れで絵の具のように染まっていた」

 「その下に並べられた数々の遺体がある。義兄は腸をえぐられ、姉には首がなかった」。二女は「わが子ながら見極めがつかない」。幸い校長の長男は無事だったが、近所の家は跡形もなく、家族全員が亡くなった家もあった。

 「(空襲の)現場には、町人の手で小さな地蔵尊がまつられた。そのうち、佐伯電話局(現NTT西日本佐伯ビル)が建つことになって地蔵尊は養賢寺の一隅に移された」。

 しかし、誰でも養賢寺に入って地蔵尊に参るわけにはいかない。関係者以外は原則立ち入り禁止だそうだ。4月26日には何らかの供養が行われているのだろうか。日米がぶつかりあった大きな戦争の中では小さな出来事、ほんの一コマにすぎないかもしれない。だからと言って忘れ去るべきことではなかろう。

 改めて1975(昭和50)年に初版が発行された「大分の空襲」を手にして、少し読んでみた。「大分空襲の全容」に続いて「軍事施設と空襲」と章立てされている。そこに丹賀砲台と大島の海軍の話が出てくる。丹賀砲台で起きた爆発事故の目撃談などが掲載されていた。

 昨夏にも大分の空襲を読んだのだが、ここの部分は記憶に残っていなかった。つい最近、丹賀砲台を訪れた(4月13日付佐伯支局長日誌「丹賀砲台園地の眺めは」で紹介)ので、今回は目に入ったのだろう。

 その体験談のタイトルは「血に染まった取締船『はやぶさ』」。大分県警巡査の体験談で佐伯史談(第七十三号)にも詳しく書かれているという。

 「県では密漁船の取り締まりや海上保安に備えて、巡視船『はやぶさ』を佐賀関港に常駐させていた。日中戦争が激しくなると軍の要請で、離島の要塞や周辺の島々への軍需品の一部輸送、用務の軍人の便乗にも当てていた。ちょうどその日も、若干の荷物と一人の憲兵を乗せて丹賀の砲台に向かった」

 「昼前丹賀要塞の岸壁に接岸、やれやれと思った瞬間、あの事故の大爆発音である。一時に空が暗くなって甲板には時ならぬコンクリートの破片や鉄塊が飛んでくる。まもなく要塞から次々と兵員が運び出されてきた。見ると、顔は真っ黒に焼けただれ、軍服はボロボロに裂けて、息絶え絶えの血だるまたちである」-などと体験談が綴られている。この後、船は負傷者を載せて佐伯港へと急ぐことになった。

 同じ本を読んでも、こちらの経験、知識が増えれば見方が変わってくる。そんなことにも改めて気づかされた。

 

 

 

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