小嶋仁八郎の聞き書き

小嶋仁八郎氏の聞き書き 津久見高校硬式野球部は故小嶋仁八郎(1921.7-1999.11)を抜きには語れない。1947(昭和22)年に発足した野球部は52(同27)年に小嶋を監督に迎え、いきなり夏の甲子園大会に初出場することになった。以来82(同57)年の夏の大会まで小嶋は津久見高野球部を春夏合わせて14回甲子園へと導き、春夏各1回の全国制覇を果たした。今や伝説となった監督である。

 小嶋仁八郎の足跡と功績をたどるのに格好の資料があった。西日本新聞に1996(平成8)年9月から12月にかけて連載された聞き書きシリーズ「球道無限」である。話をするのは当然、小嶋氏。当時75歳。聞き手は森本博樹記者とあった。冒頭の写真はその第1回である。

 大分県立図書館にこの聞き書きのコピーが綴じられていた。津久見に生まれた小嶋は旧制臼杵中学(現臼杵高校)に進み、中央大学に入学。野球を続けて社会人野球の名門八幡製鉄(現新日鉄住金)に入社した。太平洋戦争の戦況は悪化をたどり、1944(昭和19)年6月には米軍のB29による初めての空襲があった、と聞き書きにある。

 小嶋は翌45(同20)年夏に八幡製鉄をやめ、終戦が告げられた8月15日は津久見で迎えた。戦後すぐは塩たきをやったという。

 その後に西日本新聞との意外な縁ができた。それが聞き書きの26~28回にある。西日本パイレーツへの入団である。「昭和24(1949)年暮れのプロ野球分立(1リーグから2リーグへ:記者注)がワシにも大きくかかわってくる。セ・リーグに新たに誕生した福岡の西日本パイレーツから誘われたんじゃ。分立して選手もおらんかったから、いろいろと選手を探したんじゃろう。それでワシにも白羽の矢が立ったようだ」と小嶋は回想している。

 プロ野球は翌年からセとパの2リーグになった。小嶋は契約金30万円、給料3万5000円でパイレーツと契約した。西日本パイレーツは1年で終わったが、小嶋の選手生活はそれより短い2カ月だった。「ワシは監督と衝突して西日本パイレーツをやめたんじゃ。それはキャンプ中のこと。キャンプは平和台球場を借りてやっていた」。

 なぜ、監督とぶつかったのか。小嶋が寝泊まりしていた部屋で「監督たちは明日の練習のことを何も考えんで(マージャンの)牌(はい)を並べておった」。小嶋が監督に抗議すると、逆にチームワークを乱すやつとにらまれたと小嶋は言う。そんなこんなでチームを離れ、津久見に帰ることになった。

 この後、高校野球に出会う。請われて監督になった。ただ、それは津久見ではなく別府だった。当時の別府二高が硬式野球部をつくることになり、指導することになった。「ここにとんでもない、良いピッチャーがいた」と小嶋は振り返る。「プロ野球でも100勝以上を挙げ、西鉄(現西武)の中心投手となった河村英文じゃ」。夏の県大会でいきなり準決勝まで進んだ。高校野球の監督として順調なスタートを切った。そして、翌年、津久見高から監督の誘いが舞い込む。

「当時の校長が何か運動でも強くして津久見高という名前をアピールしようと考えたそうじゃ」。校長は言った。「ワシのほしい選手はいくらでも取ると言うんじゃ.たとえ、どんなに成績が悪かろうとも。校長は野球を強くしたい一心だった」

 「津久見の監督になったのが30歳の時じゃ。ワシもあぶらが乗っていたし、元気もよかった。よう練習をさせた」。結果、春の九州大会大分県予選で優勝。津久見が県内の大きな大会で勝ったのは、これが初めてだった。この年の夏の甲子園に初出場を果たし、開会式直後の試合で松山商と対戦し、大敗した。次に出場したのは1955(昭和30)年。甲子園初勝利を挙げた。

 小嶋の30年余に及ぶ監督生活を振り返ろうとすれば、話は長くなる。高校野球によって津久見の名前は全国に知られたこの聞き書きを要約するだけでも大変な量になる。小嶋は最初「3年に1回のペースで甲子園に」と考えていたと話す。本音は毎年出場を狙っていたのではないかと思うが、聞き手にはそう話している。実際は春夏合わせて14回出場している。ほぼ2年に1回のペースに近い。小嶋と高校野球によって津久見の名前は全国に知れ渡った。

 だから、小嶋には津久見高の甲子園出場が遠のいていることに強い不満があった。聞き書きで「津久見は平成になってから一度も甲子園に行っとらん。一遍も行かんとは情けない話じゃ」と嘆いている。

 名物監督にも心ない噂や中傷があった。「30年以上も高校野球の監督をやったから楽しいことも、いいこともたくさんあったが、身に覚えのないこともいろいろと言われたりもした。その中で一番気分が悪いのが金についてだ」。

 「ワシは20人近くの教え子をプロ野球に送ったが、選手にあまりプロ入りを勧めんかった。というのも、成功するのは一握り。あの世界では簡単には飯は食えん。それでもワシが邪魔する権利はない。プロ入りが決まったら、一円でも多く契約金を取ってやろう、と思っておった。だから、スカウトからは嫌われたもんだ」

 「そんなふうに考えていても、世間はそうは思わんもんだ。悪評ばかり立った。銀行から金を借りて家を建てたときも『小嶋さんはプロから金をもろうて、いいなあ』と言われたもんじゃ。ワシは頭に来て『そんなら銀行に行ってみなさい。借金だらけだから』と言い返した」

 小嶋が亡くなって20年近くの歳月が流れた。残念ながら津久見高野球部はこの間も甲子園に進むことはなかった。小嶋の夢は長く果たされないままである。

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