140年前に起きた戦争

吉丸一昌に関する資料などをいただいた 大分市在住の郷土史家の方から資料をいただいた。その中に、この日誌でも何回か紹介した「吉丸一昌」に関するものがあった。タイトルは「剣道家としての『吉丸一昌』について」。その横に「明治の終わりから大正の初めに、抒情あふれる数々の唱歌を作詩した吉丸一昌は優れた人格者でした。その人格形成の基には、剣道家としての知られざる顔がありました」と解説があった。さまざまなことを研究している人たちがいる。世の中は広いと思う。ただ、いただいた資料で興味をそそられたのは140年前の戦争の方だった。

  資料の一つに「竹田町 第二代目 戸長」「『三代目・安部井八郎』について」のタイトルがある。その横に「一枚の写真から始まる歴史探訪」と添えられている。著者である郷土史家の先祖が写った一番古い写真をきっかけに、そのルーツをたどったものだ。

 写真には「明治十三年五月京都ニテ寫ス」と添え書きがあるだけで、他に手がかりはなかったそうだ。ちなみに明治13年は西暦では1880年になる。著者の故郷である竹田市の市役所で戸籍をさかのぼって調べたところ「三代目・井八郎」のことが分かったという。生まれは文政9(1826)年で、亡くなったのは明治38(1905)年だったそうだ。この名前の人物を探し、著者は図書館で「竹田首長傳(でん)並其(そ)の歩み」という本で見つけた。

 そこには明治9(1876)年6月3日に竹田町副戸長に就き、翌々年の明治11(1878)年3月9日から明治17(1884)年7月31日まで竹田町戸長を務めた人物とあったそうだ。竹田町は現在の竹田市である。三代目井八郎が戸長だった頃の竹田町の様子はどうだったのか。著者はさらに探索を続ける。

 前年の明治10(1877)年に西南の役が起きた。著者の解説を聞こう。この年の2月に鹿児島を出発した西郷軍は熊本城を包囲するも、田原坂の激闘の末に敗退。いったん人吉に退いたが、椎葉を経て延岡から豊後竹田町に5月13日に侵入した。

 熊本から宮崎を経て大分に戦火が広がったわけだ。資料によると竹田では城下町の内外で1500の家屋が焼失する大きな被害が出た。続きは「臼杵市史」から紹介しよう。竹田の薩軍は鶴崎(現大分市)方面へも出撃したが、激戦の末、竹田を追われ、三重(現豊後大野市)から6月1日に臼杵に侵入した。薩軍は掻懐(かいまき)方面から侵入し、各所で臼杵士族らの防衛線を破り、臼杵を占領した。官軍の反転攻勢は7日に始まり、3昼夜の激戦の末に臼杵を奪還した。臼杵士族の死者43人、焼失民家は334戸とある。

「戦闘前夜」の緊張した様子を伝える資料もあった。津久見市民図書館で見つけた。大分懸立臼杵中学校(現臼杵高校)の校友会雑誌46にある「西南の役と臼杵の戦」。著者は久多羅木儀一郎とある。発行は昭和8(1933)年2月と書かれている。

 久多羅木氏が描いた臼杵での戦闘前夜をかいつまんで紹介してみる。5月19日、賊軍(薩軍)34人が三重の富家を襲って金品を略奪したとの報が臼杵に入る。20日夜、臼杵士族は緊急に会合し、官に陸軍の出張を請うことにした。21日、稲葉秀安が同志の代表として県庁に出張し、詳しく説明すると当局も理解し、陸軍の出動を請うことに同意した。同じく21日には臼杵では町民大会が開かれ、有志の士銃隊を結成することになり、銃隊2隊200人と20人の抜刀隊が編成された。緊張はいよいよ高まってくる。

 24日、佐伯方面から賊軍襲来の知らせが。これは根拠のないうわさ(流言)であった。さらに日向にいる桐野利秋が精兵数千を率いて豊後に侵入してくるとのうわさも。25日、いよいよ賊軍が来るとの情報があり、夜を徹して警戒したが、これも流言のたぐいだった。26日、県庁から臼杵に厳重警戒の呼びかけがあり、同日夜、川登(現臼杵市野津町)に派遣していた斥候から賊軍が佐伯方面から近づいているとの情報が届く。27日未明、川登の斥候が賊軍9人を認めたが、別方面に向かったとの報告があった。

 29日、警視隊の巡査2人が臼杵に来て、明朝(30日)警視隊の巡査120人が臼杵に着くと報告。30日、巡査隊が到着し、大橋寺を宿営とした。同日、賊軍が竹田から三重に来て、やがて宇目(現佐伯市宇目)に向かったという。31日、奥少佐の1中隊が三重に入ったところ反撃され、中隊は戸次(現大分市)に退却した。

 6月1日、野津の斥候から報告があった。賊兵3000今時三重を発し、目下野津市(現臼杵市野津町)を過ぎて臼杵に向かいつつありと。この後、戦闘が始まることになった。

 久多羅木氏がどんな資料を基に「戦闘前夜」を再現したのかは分からない。正確ではないかもしれないが、当時の緊張がさもありなんと思わせる。ミサイルと核の現代から見れば、臼杵での戦いはごく小さな競り合いとしかいえないのかもしれない。現代の戦場となればすべて破壊し尽くされ、そこにいる住民のおびただしい血が流れることになる。わざわざ緊張を作り出す愚を見ると、人間は進歩していないのだなとしみじみ思う。

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