ムッちゃん像と千羽鶴

大分市の公園に置かれたムッちゃん平和像 「平和の尊さ語り継ぐ」「3000人が思いはせて」-こんな見出しで、8月4日付毎日新聞朝刊の大分版に「ムッちゃん平和祭」の記事が掲載された。1945(昭和20)年8月の終戦直後に大分市内の防空壕(ぼうくうごう)で亡くなったとされる少女ムッちゃん。その像が同市の平和市民公園ワンパク広場に建てられたのが83(同58)年8月だった。思い返せば当時は大分での記者生活2年目だった。今はムッちゃんのこともぼんやりとしか覚えてない。久しぶりに現地を訪ねてみることにした。

 平和祭が終わった直後だからだろう。ムッちゃんの後ろにはたくさんの千羽鶴が飾られていた。平和像建立のいきさつが書かれた案内板ムッちゃん平和像の傍らに案内板があり、平和像が建立されたいきさつが書いてある。1977(昭和52)年夏に毎日新聞大阪本社が戦争体験記(終戦三十三回忌の夏)を企画し、読者に投稿を呼びかけたことがきっかけだった。

 それに応じて京都在住の主婦中尾町子さん、当時36歳が、疎開先の大分市で出会った少女ムッちゃんとの思い出を手記にして新聞社に送った。それが8月13日付毎日新聞夕刊に「忘れられぬ 少年の死 少女の死」の見出しで報じられた。

 当時の記事は「ムッちゃんに導かれて-主婦と記者が歩んだ平和への旅」(中尾町子、福井逸治著 みき書房)の中で紹介されている。大分市でも45(同20)年3月から米軍の空襲が本格化してきた。記事によると、中尾さんは西大分駅近くの海岸に迫った山肌に掘られた防空壕(ぼうくうごう)でムッちゃんと出会った。

 空襲が激しくなるにつれて当時6歳の中尾さんら子どもは防空壕の奥へ奥へと避難するようになった。その一番奥の一角にムシロ2枚、その上に薄いふとんを敷いていつもムッちゃんは寝ていた。中尾さんは「あの子は肺結核やから近寄ってはいけない」と母親から言われていた。

 そのうち、ムッちゃんと話をするようになった中尾さんはムッちゃんが横浜で空襲に遭い、鳩がムッちゃんを見守っている母と弟が行方不明となって大分のおばの家に預けられたことを知る。空襲が繰り返される中、45(同20)年7月16日深夜から17日未明にかけて大分市は大規模な攻撃を受けた。「大分の空襲」(大分の空襲を記録する会発行)によると、焼夷(い)弾約6000発が投下され、全焼2358戸、半焼130戸で、焼け出された人は1万730人、死者49人、負傷者122人の被害があった。

 連日のような空襲を経て終戦を迎えた。しばらくして中尾さんはムッちゃんの死を知る。ムッちゃんは12歳だった。「戦争が終わっても、横穴の中にほっておいたらしい。水の竹筒を握って餓死したそうや」と大人たちはささやきあったと記事は書いている。

 中尾さんが言いたかったことは記事の最後にある。「この悲惨な戦争の実感を、お菓子を食べながらテレビの戦争映画を見ている今の子どもたちに、どんな言葉で語ればよいのでしょう」。

 この記事は反響を呼んだのだが、ムッちゃんの話が全国的に広がるのは82(同57)年1月からになる。中尾さんを取材した福井逸治さんが毎日新聞の「記者の目」でムッちゃんの話を書いた。記者の目は大阪本社管内だけでなく、東京本社や西部本社(北九州市)で発行される新聞にも掲載される。反響はもっと大きくなった。

 再び「ムッちゃん平和像」の案内板の説明に戻ろう。「この戦争悲話は、全国的な反響を呼ぶこととなり、ムッちゃんの記念像建立にと各地から約650万円の寄付金が寄せられ」て平和像が建てられた。

 ここまで説明したことでお分かりの通り、毎日新聞がムッちゃん平和祭を積極的に報道するのは、同社が平和像建立で中心的役割を果たしたからだ。「毎日」が前面に出た分、当時、他の新聞社が報道に消極的であったことは想像に難くない。それでも読者の関心があれば取り上げざるを得ない。

 ただ、最近の西日本新聞を見ると、ここ数年、平和祭の記事はない。読者の関心が段々と薄れてきているということだろうか。

 当時は考えなかったが、大変だったのだなと改めて思ったこともあった。ムッちゃんが全国的な話題になる中で、ムッちゃんは誰か、それを特定することが急務となった。当時の毎日新聞大分支局などではいろいろと調べさせられたようだ。西大分駅周辺の防空壕もあちこちと調べたようだが、結局、ムッちゃんにつながる手がかりを得られなかった。

 当時大分にいた同業者として、毎日新聞大分支局の記者のみなさんがそんな苦労をしているとは知らなかった。

 ムッちゃんは実在したのか。そんな疑問は消えない。だが、中尾さんの手記に多くの人が心動かされたのは終戦前後の時期にさまざまな悲劇が起こり得た、ムッちゃんのような子どももいたはずだ、と思ったからだろう。

 戦争も空襲も知らない世代として、そういった当時の状況を改めて学ぶことは意味があると思っている。

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