シベリア出兵の百回忌

墓石が並ぶ桜ケ丘聖地 「ユフタ」と聞いても全く分からない。シベリアの地名だと言われても何のヒントにもならない。「シベリア出兵『ユフタの墓』」(柴田秀吉著、2005年発行)によると、ロシア極東の港ウラジオストクから西へ約1600km行ったところのようだ。ここで1919(大正8)年2月25日から26日にかけて戦闘があり、大分聯隊の一個大隊が全滅する悲劇があった。大分県別府市に住んでいた柴田氏(故人)は残されていた大隊の「陣中日誌」などを手に入れ、多くの人に事実を知ってもらおうと一冊の本にまとめた。来年はその百回忌ということになる。

 98年前のシベリアで大分県出身の多くの兵士が戦死した。地元でもあまり知られていない事実かもしれない。もちろん、さまざまな書物にその事実は記されている。

 例えば臼杵市史(中)の「第四節近代社会の発展」の最初に「第一次世界大戦とシベリア出兵」がある。第一次世界大戦(1914~18年)の間に起きたロシア革命(1917年)への干渉を意図したシベリア出兵では、大分にどんな動きがあったのか。

 市史によると、当時大分市駄ノ原には歩兵第一二師団第七二聯隊(郷土部隊)が駐屯していたが、桜ケ丘聖地の正門この部隊にも動員令が下り、1918(大正7)年8月2日に大分駅から極寒の地シベリアに出征した。第七二聯隊の兵士は大分県中・南部と宮崎県北部の出身者で、宮崎県にもユフタの戦いによる戦死者が出たという。

 市史の引用を続ける。七二聯隊は9月3日にウラジオストクに到着後、約1年間にわたって各地を転戦した。そして、19(同8)年2月25、26両日にわたるアレクセーエフ近郊の「ユフタの戦い」その他で、田中支隊(支隊長・田中勝輔少佐)163名、香田斥候小隊(香田驍雄少尉)44名、森山小隊(森山俊秀少尉)81名計288名が全滅する悲劇に見舞われた。聯隊は8月8日に大分駅に帰還した。

 津久見市誌にもほぼ同様なことが書かれている。

 この戦闘がどんなものだったのか。後世に正しく伝えていく必要がある。柴田さんはそう思って「シベリア出兵『ユフタの墓』」を書いたのだそうだ。ユフタの戦いについては、その戦場で九死に一生を得て、その体験を綴った「西伯利亜出征ユフタ実戦記『血染の雪』」(山崎千代五郎著)もある。

 柴田氏の著書によると、山崎氏(故人)は1927(昭和2)年から32(同7)年にかけて5400カ所で講演し、著作は版を重ねて37版までいったそうだ。山崎氏の証言は作家高橋治氏の四部作「派兵」(朝日新聞社刊、1973~77年)の第二部「シベリアの虹」にも一部引用されている。

 山崎氏は森山小隊の一員として戦闘に加わったようだ。「派兵」から一部を紹介してみたい。「弾丸も残り少なくなり、しかも寒気のため指の自由が奪われ引き金さえも思うようには引けなくなっていた。二十年来の交友であった染矢もすでに倒れ、佐藤も死んだ。ウラーの声が残り少ない日本兵を押し包むように高鳴る中で、森山少尉の凄惨な号令が聞こえてきた。『突撃、前へ』。銃剣を片手に握りしめ、防寒服を脱いだ少尉の手が後方の砲兵陣地を指さしている。大腿部を縛ったタオルが真っ赤に血に染まっていた」

 柴田氏は山崎氏の本が事実を伝えていない、軍隊の規律を保ち、兵士を鼓舞するために戦闘を都合よく脚色したと考え、改めて調べ直して本にまとめたという。陣中日誌があったシベリア記念堂そのよりどころとなったのが、ユフタの戦死者が眠る桜ケ丘聖地(大分市)のシベリア記念堂にあった「陣中日誌」である。戦死者の遺品を保管していた記念堂で偶然に日誌を見つけた人がいた。二つの陣中日誌があり、柴田氏はそのコピーを入手した。

 田中支隊の「陣中日誌」はユフタ以前の記録には部隊長田中勝輔の「勝」の印があったが、全滅した以後の記載には「勝」の検印はないそうだ。柴田氏は「部隊長田中以下将校は全員死んだので、『陣中日誌』は点検されないまま残されたのだ。この記録がユフタ戦の真実にもっとも近いと思える」と考えた。

 シベリア出兵についてはもう少し調べたい。今日のとりあえずの結論は記録を残すことの大切さである。失敗からも多くの教訓が得られる。後世の人のために記録を残すことは、今を生きる人間の責務であり、当然の作業である。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です