臼杵の古寺を駆け巡る

仙厓和尚の掛け軸が飾られていた 巡礼というよりも物見遊山と言った方が適切だろう。26日に国宝臼杵石仏の火まつりに合わせて臼杵市内の見星寺、大橋寺、龍願寺と興山寺の特別公開(古寺巡礼)が行われた。なかなか見る機会もなかろうと特別公開に出かけていったが、如何せん基礎知識がないから、その価値がよく分からない。27日は図書館に行って「臼杵」「巡礼」「白隠」「仙厓」などをキーワードにして遅ればせながらイロハのイだけでも勉強することにした。

 「古寺巡礼辞典」(中尾堯著、東京堂出版)や「全国霊場巡拝辞典」(大法輪閣編集部)などを見つけた。古寺巡礼辞典は巡礼コースとともに札所(霊場)を紹介する辞典だそうだ。都道府県別の索引で「大分県」を見ると「九州三十三カ所観音霊場」とあった。

 それは英彦山から始まり太宰府で終わる北部九州の霊場巡りで「古寺巡礼辞典」によると、大分県内には9カ所の札所がある。仙厓や白隠の画がある見星寺現在の大分市や国東市、豊後高田市、宇佐市などにある寺で創建は養老年間(717~23年)などとある。今回公開された臼杵の4寺は16~17世紀に開かれた寺なので「寺の世界」で言えば若手から中堅といったところか。

 ちなみに巡礼の始まりは7~8世紀頃と古い。ただ、一般庶民の間に巡礼が広まっていくのは室町時代末期から江戸時代にかけてだそうだ。

 最初に伺った見星寺では白隠、仙厓の画を見せていただいた。臼杵市歴史資料館で公開された時以来である(2月28日付佐伯支局長日誌「白隠慧鶴(はくいんえかく)と仙厓義梵(せんがいぎぼん)」)。

 資料館には白隠慧鶴作「見星寺で白隠慧鶴の画慧可断臂図」(えかだんぴず)と仙厓義梵作「龍図」(りゅうず)が展示された。昨年、市内の見星寺(けんしょうじ)で発見されたものだという話だった。その場で関係者の話を聞き、そのまま記事にした。まさに付け焼き刃の仕事である。

 それきり忘れていたら、また見ることができた。仙厓作の鍾馗(しょうき)仙厓さんの作品は他にもあり、面白い。一つは「さみだれや 正気払いの鍾馗(しょうき)さん」などと書かれているらしい。白隠、仙厓などと呼び捨てにしていたが、二人とも高僧だった。

 そんなわけで別冊太陽の「仙厓」「白隠」と「白隠 江戸の社会変革者」(高橋敏著、岩波現代全書)を借りてきて読むことにした。

 別冊太陽の「仙厓」によると、88歳で亡くなった仙厓和尚は2000点近い作品を残している。美濃の国(岐阜県)に生まれた仙厓和尚は美濃(岐阜県美濃市殿町)清泰寺の空印円虚のもとで得度。義梵と名付けられた。諸国行脚を続けた仙厓が博多聖福寺にやって来たのは38歳の頃。40歳で聖福寺の百二十三世になった-とあった。

 仙厓の画の自由度が増していくのは職を退いてから。仙厓についてユーモア溢れる画と書かれているが、別冊太陽を読む限り、白隠の画も面白い。「高僧」「禅師」「中興の祖」などと後世の我々がしかつめらしく考えるほど、当人たちが堅苦しく生きてはいなかった、もっと伸び伸びと本音で生きていたのかもしれない。

 特別公開に行っていただいた資料には「臼杵八カ所霊場巡礼」のリーフレットがあった。2番目に訪ねた大橋寺それを読むと、八カ所霊場巡りの出発点は臼杵石仏で見星寺など4寺も札所に入っている。臼杵八カ所霊場巡りというのがあることは知らなかったが、石仏火まつりと同日に4寺が特別公開を行ったのも一緒に霊場巡拝を行っているのと無縁でなかろう。

 調べていくと、いろいろと疑問が湧いてくる。例えば臼杵の中心市街地に寺院が多いのはなぜか。「臼杵歴史の謎」(板井清一著・発行)によると、美濃から臼杵にやって来た稲葉氏が臼杵城下を守る重要な拠点に寺院が建立した。

 特に町家と仁王座の武家屋敷の境界には数多くの寺院が建てられた。龍原寺の地獄・極楽図の案内臼杵藩稲葉氏が臼杵に入城したのは慶長5(1600)年12月で、翌6年には平清水龍ケ原に龍原寺が建てられた、と「臼杵歴史の謎」にある。翌年には善正寺、法音寺が、その2年後に光蓮寺が、と建立が続く。大橋寺は寛永5(1628)年に現在地に移り、見星寺は同11(1634)年に創建された。

 相次ぐ寺院建立は稲葉氏の統治政策の一環だった。聞きかじったような知識を披露し続ければ際限がない。今夜はここらあたりで一度筆を置きたい。

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