荷物片づけで休みます

大分・萬寿寺蔵の半身達磨など(別冊太陽) 西日本新聞佐伯支局を引き払って大分市に移った。これを機会に身辺を見直し、使わないものはできるだけ処分してしまおうと考えた。そんなわけで5日も引き続き荷物の片付けに時間を割き、この日誌はお休みにと思った。左の写真は白隠画の「半身達磨(朱達磨)」(大分・萬寿寺蔵)と「達磨」(永青文庫蔵)。8月27日付佐伯支局長日誌「臼杵の古寺を駆け巡る」で触れた白隠と仙厓についてぼちぼちと本を読んでいる。

 8月26日の国宝臼杵石仏火まつりに合わせて臼杵市内の4寺の特別公開(古寺巡礼)があったことは8月27日付の日誌で書いた。そのうちの一つの見星寺で白隠と仙厓の画を改めて見る機会があった。

 2月に臼杵市歴史資料館で初めて見て以来だった。深く考えずに特別公開を見に行ったが、別冊太陽の「白隠」と「仙厓」これも何かの縁と思って、図書館で別冊太陽の「仙厓」「白隠」と「白隠 江戸の社会変革者」(高橋敏著、岩波現代全書)を借りてきて読むことにした。別冊太陽の年譜によると、白隠は五代将軍徳川綱吉の時代の1685(貞享二年)に生まれ、84歳でその生涯を閉じた。

 当時としては破格の長寿である。そして、その人生は波乱に富んでいたようだ。「白隠 江戸の社会変革者」では面白いポイントが三つあった。まずは第一章「禅僧白隠慧鶴の誕生」の最後で語られる当時の時代背景(太平元禄と藩政改革請負人)。諸藩の財政が厳しくなってきたこの時代に登場したのが「酷吏と呼ばれた新参者の藩政改革請負人だった」という。

 「従来からの領民との信頼関係を無視した強引な新法による藩政改革はそれなりの成果をあげるが、領内各所で軋轢を生じ、百姓一揆を招来することにつながっていく」と著者は書いている。

 藩政改革請負人は八代将軍吉宗の享保の改革の時にも登場するようだ。「ゴマの油と百姓は絞れば絞るほど取れるものなり」と豪語した勘定奉行神尾若狭守春央に典型的な、狡猾な年貢増徴の企みが民を苦しめた、と第二章「窮乏庵飢凍白隠」にある。こうした時代背景の中で第三章「白隠の大転換」が起きる。

 生地の松蔭寺の再建に成功した白隠は50代に入っていた。そこから精力的な活動が始まる。招きに応じて全国各地を巡り、提唱・購読を行い、社会を深く洞察しては、鋭い疑問、批判を人々に投げかけた、と著者は書く。異能な禅僧だったのは、提唱や講義、人々とのやり取りを文字化し、多くを木版刷りして頒布し、中には京都の書肆から出版・販売して世の物議をかもすことにもなった。

 白隠の声望は高まり、多くの弟子も参集し、松陰寺の山号「鵠林」をとって鵠林一門と呼んだ。大きな集団になった結果、晩年の白隠を悩ませたのが後継者問題だった。白隠が「これぞ」と思った人物はいったんは逃亡、その中で後継者になろうと画策する者も出てきた。長い生涯にさまざまなドラマがあった。もう少し資料を読み進めていきたい人物である。

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