中村裕博士のおさらい

JR大分駅前で開かれたスポーツ・オブ・ハート JR大分駅を中心に「スポーツ・オブ・ハート2017 in 大分」が開かれていることは9日の日誌で紹介した。会場でもらったパンフレットによると、障がい者も健常者も一緒に楽しめるスポーツと文化のイベントを通して、障がい者アスリート・アーティストの凄さや魅力を発信し、彼らの社会的な知名度の向上を目指す取り組みと書かれている。凄さ、迫力が増しているのは、かつては障がい者の社会復帰のための「リハビリテーションの手段」だったスポーツが今や「真剣勝負の競技」になっていることにあるだろう。

 ここで障がい者スポーツについて語るには大分県民には「言わずもがな」の中村裕博士のおさらいからしなければならない。

 10日の日誌のテーマは中村博士ではなかった。スポーツ・オブ・ハートのパンフレットに書かれてあった「健常者と障がい者がともに暮らせる取り組みをいち早く進めてきたパイオニアともいえる都市」である大分市について調べること。パイオニアとして歩みを学ぶことだった。

 1981(昭和56)年に始まった「大分国際車いすマラソン」は車いすランナーだけの世界で初めての大会だった。障がい者スポーツの先駆的な取り組みが大分のまちづくりにどんな影響を与えたか。少し調べてみたが、確たる資料を見つけられなかった。

 大分市には高齢者も障がい者も安全、安心してまちを巡ることができることを目指したバリアフリー基本構想がある。午前中から家族連れなどでにぎわう会場ただ、基本構想策定の直接のきっかけは、国のハートビル法と交通バリアフリー法が統合・拡充されて2006(平成18)年12月に「新バリアフリー法」ができたことにある。

 大分県が障がい者基本計画をつくったのも05(同17)年に障害者総合支援法ができて、都道府県は基本計画をつくることが義務付けられたことがある。

 車いすマラソンもまちづくりの観点で語られることは少なく、海外も含めた「交流」の視点で語られていることが多いようにみえた。

 車いすマラソンといえば中村裕博士を抜きに語れない。ただ、障がい者スポーツと中村博士については数多くの書物や資料がある。門外漢が喋々(ちょうちょう)説明するよりも、例えば「社会福祉法人太陽の家」のホームページを見てもらう方が早いだろう。

 ここでは中村博士の業績を紹介した書籍の中から一冊紹介したい。東京オリンピックと新幹線「東京オリンピックと新幹線」(編著:東京都江戸東京博物館 行吉正一 米山淳一)。ここに故中村裕博士のご子息の中村太郎氏(社会福祉法人太陽の家理事長)が寄稿している。この本は2014(平成26)年10月に青幻舎から発行されている。

 そこにある中村太郎氏の寄稿の中から一部引用してみたい。博士が障がい者スポーツに出会うのは英国である。国立別府病院整形外科部長として1960(昭和36)年にストーク・マンデビル病院のグッドマンのもとへ留学した博士は、帰国後、ストーク・マンデビル方式を取り入れようとした。

 英国政府はストーク・マンデビル病院に国立脊髄損傷センターを開設し、ドイツから亡命してきたルートヴィッヒ・グッドマンを院長に迎えた。44(同19)年のことだそうだ。

 ノルマンディー上陸作戦をはじめとするドイツとの死命を制する戦いに備え、多くの兵士の死傷者が出ることを予想して講じた対策の一つだったという。ストーク・マンデビル病院にはたくさんの脊髄損傷者が送還されてきた。第二次世界大戦時の脊髄損傷者の救命率はわずか2割で、日本では再起不能とみられていたそうだ。

 グッドマン院長は「失われたものは数えるな、残っているものを最大限に活かせ」といって車いす生活となり、落ち込んでいる患者にスポーツを勧めた。下肢の麻痺の回復が不可能な脊髄損傷者も残存機能強化のためにリハビリテーションを行う。そのリハビリにスポーツを取り入れて、心理的効果も加えて社会復帰を目指す。これがストーク・マンデビル病院の手法だったという。

 しかし、当時の日本では障がい者には「運動」よりも「安静」だった。そんな世間やマスコミの声にもめげず、中村博士は大分県庁幹部を説き伏せ、全国初となる大分県の身体障害者体育協会を設立し、身体障害者スポーツ大会の開催にこぎつける。61(同36)年のことだったと太郎氏は書く。

 中村博士はこのあと64(同39)年に開催された東京オリンピックの終了18日後に開かれる東京パラリンピックのポスター「東京パラリンピック」の日本選手団団長を務めることになる。太郎氏によると、パラリンピック開催も博士にとって苦難の連続だったようだ。東京パラリンピックの結果も芳しいものとはいえなかったようだ。

 日本は21参加国中13番目の成績で、金メダルはわずかに1個だったと太郎氏。車いすバスケットでは当時の皇太子妃美智子さまの目の前で、フィリピンを相手に大差で惨敗し、関係者が「早く終わってほしい」と願ったのだそうだ。

 パラリンピックの語源と変遷もまた面白い話である。当初は下半身まひの「パラブレジア」とオリンピックの「リンピック」をつなぎあわせたものだったのが、いまは「パラ」を「パラレル(parallel=平行する)」の意味に使う。オリンピックと同等の「もう一つのオリンピック」の意味になったという。

 勉強になることはたくさんあるのだが、今夜はここらあたりで止めておこうと思う。

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