柞原八幡宮の浜の市へ

境内の露店にはひっそりとして 台風18号の襲来に備えて今週末は各地で計画されていた各種の催しが中止・延期された。大分市の秋の代表的な祭りの一つである「浜の市」はどうか。会場となる柞原八幡宮の御旅所(仮宮)はJR西大分駅の近くにある。降り続く雨で境内の人影はまばらだった。露店も半ば閉じている。結果論で言えば16日はいささか警戒しすぎだったようだ。台風の進路予想はそれだけ難しいということだが、こちらも不確かだと思いながらも、情報に踊らされている部分がなきにしもあらずだなと思う。

 16日の朝方は少し風もあった。海に近い柞原神社の仮宮周辺の幟(のぼり)が風にはためいていた。柞原八幡宮の仮宮近くで幟がはためく浜の市の歴史は古い。「浜之市は豊後府内藩領内の由原(ゆすはら、現柞原)八幡宮の放生会に際して、その御旅所で開かれた祭礼市」で、その始まりは寛永十三(1636)年だとある(「近世の芸能興行と地域社会」神田由築著、東京大学出版会)。

 江戸時代の浜の市については後で触れる。江戸から明治に時代が代わって1871(明治4)年に廃藩置県が行われると、府内藩はなくなり、浜の市は宙に浮いた。それが復活し、新聞報道されたのが1918(大正7)年だった。

 2016(平成28)年7月に西大分商店街浜の市祭り実行委員会が発行した冊子「浜の市」によると、その2年前に大分商工会を中心に「浜の市」の復活準備が始まり、18年の浜の市の様子が当時の大分新聞で報じられた。

 9月19日付大分新聞の見出しには「浜の市夜を籠(こ)めて人影滋(しげ)く」「歓楽を追う若人の群れ」「電車で運び込まるるもの二日間に十萬(まん)」などとある。浜の市の名物「一文人形」境内からそこら一面幾百の露店、掛小屋芝居、見世物、覗き、香具師(やし)の群れ、波のように動く群衆ーが記事に書いてあるという。そして、4年後の1922(大正11)年の浜の市では日本最初のイルミネーションが登場したのだそうだ。

 この規模と賑わいはまさに江戸時時代の「浜之市」の伝統を引き継いだものといえる。西大分商店街の冊子「浜の市」によると、柞原八幡宮仮宮の鳥居活況を呈した浜の市も「昭和40(1965)年ごろに衰退期を迎えた」という。当時の工業連合会会長の尽力もあって西大分商店街内に「浜の市祭り実行委員会」が設けられ、テコ入れを図った。

 しかし、なかなか賑わいを取り戻すには至らない。それでも少しずつ工夫を重ねている。左上写真にある「一文(首)人形」の修復もその一つ。冊子の「浜の市」も3年前から発行を始めた。このほか、提灯山笠を設置したりと話題作りを行ってきた。花火大会も呼び物の一つである。

 浜の市は14日から20日までの1週間の日程である。大分新聞によると、大正時代は10日間だったようだ。江戸時代はもっと長かったという。

 「近世の芸能興行と地域社会」(神田由築著)によると、寛永十三(1636)年は旧暦の8月11日から17日までの7日間だったが、境内に飾られた提灯山笠若干の変遷を経て8月11日から9月1日までの20日間になった。その後、元禄四(1691)年には10日間の延市願いが出され、のちには市日の延長が毎年行われるようになっていった―という。

 浜之市の始まりは、豊後府内藩主日根野吉明が由原八幡宮の放生会を再興するとともに「新市」を開いたことによるとされる。その後藩主は松平氏に代わったが、浜之市を振興する姿勢は変わらなかったようだ。

 浜之市の開催期間はどんどん長くなり、遠く大阪などから商人や芸人などが集まってくるようになった。人が人を呼ぶ流れが大きくなり、浜之市は現代で言うアミューズメントパークやショッピングモール(遊郭があったのはちょっと違うが)になった。そんな想像もできる。

 今の「浜の市」とは全く違うものだったことが分かった。地域に根差したお祭りとしての「浜の市」を楽しみにしている子供たちも少なくない。より多くの人が集まる祭りとなるように関係者の方々は頑張っていただきたい。

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