大友宗麟入門~その①

臼杵市歴史資料館の企画展「大砲と十字架」 臼杵市歴史資料館で企画展「大砲と十字架~宗麟・臼杵・キリシタン文化」が開かれている。24日に学芸員による説明があるというのでのぞいてみた。宗麟(そうりん)といえばキリシタン大名として知られた大友宗麟(1530~1587)である。戦国時代に一時は九州最大の勢力を誇った。大分では圧倒的な知名度があり、大分川にかかる新しい橋も「宗麟大橋」と名付けられたほどだ。こちらは生粋の大分市民でもないので、もう一つ馴染みが薄い。そんなわけで少し勉強してきた。

 今回の企画展の目玉の一つが鹿児島県阿久根市から借りてきたという「阿久根砲」。1957(昭和32)年に砂浜に埋もれているのを当時の小学生が見つけたのだという。今回阿久根市からわざわざ運んで展示したのは、宗麟がポルトガルから購入した大砲がこの「阿久根砲」ではないかと考えたからだという。

 なぜ、宗麟が買った大砲が鹿児島にあったのか。別冊太陽「大図解戦国史」より話は1578(天正六)年の高城・耳川の合戦にさかのぼる。薩摩・大隅(現鹿児島県)を平定し、日向(現宮崎県)を支配下に置いた島津氏と宗麟が日向の高城、耳川で戦い、宗麟は大敗を喫する。

 合戦で島津方の高城を大友軍が包囲したときに使ったといわれるのが「国崩し」と呼ばれた大砲だったそうだ。ポルトガルから購入した大砲が肥後(現熊本県)の高瀬津(現玉名市)に陸揚げされ、豊後(現大分県)まで運ぶように命じた宗麟の文書が展示されている。

 大友軍は耳川まで敗走し、ここで島津軍の追撃を受けて壊滅的な打撃をこうむる。この合戦で大砲も奪われたのではないかとの話だった。阿久根で見つかったのは江戸末期、同地に島津藩が台場を築いた時に、この大砲を据えたからで、その後忘れ去られていたものが60年前に見つかったとの背景説明だった。

 宗麟の「国崩し」の大砲とされてきたのは「仏狼機(ふらんき)砲」と呼ばれるものだが、資料館には企画展の大きな横断幕がこれは日本で造られたものに特有の特徴があるとの説明だった。一方、阿久根砲にはポルトガル王家の紋章などがあるとのことだ。つまり、宗麟の大砲は阿久根砲との結論になる。歴史好きには面白い話かもしれない。

 もう一つ、この企画展で注目してもらいたいものが、宗麟が使った印章や花押だそうだ。宗麟の本名は義鎮だが、通称というのだろうか、しばしば名前を変え、頻繁に印章や花押を変えているのだそうだ。

 高城・耳川の合戦に敗れた宗麟はキリスト教の洗礼を受け、ドン・フランシスコの洗礼名を受ける。その時に使った印章に「FRCO」の文字がある。アルファベットを使った印章は宗麟が初めてではないかとの解説があった。宗麟は合戦があった天正六年に「三非斎」と称するようになり、敗戦後は「円斎」と名乗ったようだ。最後は「府蘭」と称したらしい。

 洗礼とアルファベットの印章の一新は、合戦に敗北した宗麟が宣教師とその背後にあるポルトガルの軍事技術を得るために行ったのではないか。そんなことも考えられるとの話だった。

 大分で宗麟が愛される理由は何だろう。戦国時代に名をはせた人物だからか。西洋文化、キリスト教をいち早く取り入れ、大分、日本にこれまでなかったものをもたらした功績に対してか。宗麟ゆかりの大分、臼杵、津久見各市の関係者は全国的に宗麟の知名度をもっと上げていきたいと思っている。

 門外漢としては宗麟とその時代をこれから勉強していき、宗麟の今日的な価値とは何かを考えていきたいと思った。

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