宗麟と一村一文化運動

臼杵市歴史資料館の正門 臼杵市歴史資料館で浮かんだ小さな疑問が解けた。同資料館で企画展「大砲と十字架~宗麟・臼杵・キリシタン文化」が開かれていることは9月24日付佐伯支局長日誌「大友宗麟入門~その①」で紹介した。そこで展示されている大友宗麟画像(複製)とフランシスコ・ザビエル像(複製)がともに津久見市所蔵となっていた。宗麟の居城である丹生島城があった臼杵に画像がなくて、宗麟終焉の地である津久見にはあるのは、なぜか。少し不思議に感じた。

 それは津久見市がかつて宗麟関係の史料・資料を精力的に集めた時期があったからだから。そして、それが当時の大分県知事が提唱した「一村一文化運動」に基づくものだったこと。そんなことが書かれた冊子が大分県立図書館にあった。

 JR大分駅前で行われた「第5回宗麟公まつり」の会場を覗いて、県立図書館でNPO法人大友氏顕彰会(大分市、牧達夫理事長)が発行している「大友氏の風景」を読んだことは15日付の日誌に書いた。

 同じ棚で見つけたのが「宗麟と南蛮文化~津久見市収集10年の精華」と題された図録だった。津久見駅前の大友宗麟像開くと当時の津久見市長のあいさつがある。そこに1996(平成8)年4月とある。同市は宗麟ユートピア構想を策定し、宗麟関係の資料収集を始めて10年(当時)が過ぎた。その成果を大分県立芸術会館で披露することになった。その時の図録ということだった。

 同市には当時、大友資料館(仮称)を建設する構想があったようだ。それで一生懸命になって集めた。臼杵市歴史資料館の企画展では、従来宗麟の大砲とされてきた「仏狼機(ふらんき)砲」(複製)も展示されているが、これも津久見市所蔵である。よそにないものをいろいろと収集したようなのだが、残念ながら資料館建設は実現しなかった。

 では、集めたものはどこにあるのか。津久見市のホームページで検索してみると市議会の議事録があった。13(同25)年3月の第1回定例会で議員が大友宗麟ユートピア構想で購入した文化財の一般公開について質問した。それに対し、同市教委生涯学習課長が次のように答えた。

 宗麟の収集資料については大分県宇佐市にある県立歴史博物館で保管してもらっている。津久見市の祭りに登場した宗麟の鉄砲隊公的機関が保有するものとしては歴史的にも資料的にも価値が高いものである。ただ、市内に展示、公開する施設がないために十分に活用できていない。今後は市民図書館などで展示できないか検討するとともに、インターネットを活用したホームページでの宗麟収蔵資料の公開についてはできるだけ早い時期に実現したい-などと答弁していた。

 ただ、現在に至るまでインターネットを使った公開も行われてはいないようだ。何か解決すべき難しい課題が残っているのだろうか。

 津久見市が一時期熱心に宗麟関係の資料を収集したこと。しかし、展示する施設が市内にないために、その成果が十分に市民に還元されていないこと。ただ、資料収集は無駄ではなく、他の形で役に立っていること-などが分かった。

 もう一つ、図録の市長あいさつで触れていた「一村一文化運動」とは何かについても少し説明が必要だろう。こちらは大分県のホームページで調べることにした。しかし、随分と前のことであり、適当な資料が見当たらない。

 そこで、津久見市の場合と同様に議会の議事録から調べてみることにした。議事録を検索すると、1990(平成2)年の3月定例議会でのやり取りに「一村一文化運動」の言葉があった。当時の知事は平松守彦氏(故人)。1974(昭和54)年に知事となった氏が取り組んだ「一村一品運動」は広く知られるようになっていた。

 一村一文化運動はその応用形ということになるだろうか。議員の質問に答えて知事は以下のように答弁した。

 「第三番目は、一村一品を単なる商品にとどまらず、それぞれの地域にしかない文化、まあ『しかない文化』と言いますが、東京のまねではない、それぞれの文化、伝統を掘り起こして一村一文化運動、今度は文化振興室をつくり、教育委員会と共同してそれぞれの地域に誇りを持てる青少年を育てていくための、県民が地域に誇りを持てる、最後は一人逸品運動--逸品というのは秀逸の「逸」というのを書きますが、一人逸品運動を展開していく、このように底の深いものにしていきたいと考えております」

 3月議会に続いて6月、9月の議会でも質疑があった。知事は「あらゆる手段で県内に魅力ある磁場をつくって人口増加を目指していきたい」「地域に内在する文化を掘り起こしていく。朝地町の朝倉記念館、山香町の二宮美術館、臼杵市の野上弥生子文学館といったようなものをこれから育成いたしまして、それぞれ過疎地域において地域文化を中心とした観光、こういったものを考えてはどうか」などと答えている。

 津久見の話に戻れば、一村一文化運動が90(平成2)年を起点としているとすれば、それ以前から同市が進めていた宗麟ルネッサンス構想が、途中から一村一文化運動の流れに乗ったものになったということになる。

 さて、一村一文化運動によってできたこととできなかったことの検証が行われたかどうかは調べられなかった。ただ、県のホームページを見ると、1999(平成11)年度から新たな一村一文化事業が始まっている。平松知事時代が続き、政策は継続されたようだ。

 一つの政策が継続されることが単純に良いともいえないが、猫の目のように政策やスローガンが変わるのも感心はしない。例えば「一億総活躍社会」はどこに行ったのだろうか。世の中の変化がどんどん激しくなって政策の賞味期限も極端に短くなっているということだろうか。

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