今に繋がる切支丹遺跡

野津中央公民館で開かれたシンポ 日本におけるキリスト教の受容、変容、同化の歩みを、うまくいけば現代まで、臼杵市野津町でたどれる可能性が大きい-。19日に野津中央公民館で開かれた「シンポジウム臼杵からキリシタンの歴史が見える」の結論を、そう理解した。有力な手掛かりとなるのは、ほぼ完全な形で見つかった下藤地区キリシタン墓地などの遺跡と数多くの古文書。シンポジウムではマレガ神父が収集した臼杵藩資料などの調査研究状況も報告され、成果の一端が披露された。

 シンポジウムの副題は「下藤地区キリシタン墓地とマレガ文書が語るもの」。どちらもこの日誌で何回か紹介したことがある。

 例えば3月8日付「下藤キリシタン墓地の謎」、3月5日付「マレガ神父の戦争体験」、2016年9月1日付「マレガ神父を知らない」‐など。

 下藤キリシタン墓地の特徴とは何か。江戸時代の禁教期にも破壊を免れ、ほぼ完全な姿を残していること。シンポ会場となった野津中央公民館その結果、キリシタン墓がつくられていく過程が明らかになったこと。さらに墓地をつくった人物(洗礼名リアン)が分かっていること-などが挙げられる。

 臼杵市教育委員会が3月に発行した「臼杵市のキリシタン遺跡」によると、キリスト教が「リアン」を中心に急速に広まっていったのは天正6年(1578年)頃からだという。同時にキリシタン墓地の造営も始まったようだ。

 リアンについては当時野津を訪れたこともある宣教師ルイス・フロイスが著書「日本史」で触れている。面白いのは日本側の公文書にも「理庵」が登場することだ。慶長3年(1597年)に行われた検地によって作成された検地帳に登場する。

 リアンたちは既存の仏教を徹底的に排斥する対決型だったと基調講演した大石一久・元長崎歴史文化博物館研究グループリーダーは言う。それはキリシタン墓をつくるのに仏教石塔類を部材に使ったことでもうかがえる。つまり、壊して使ったということになる。

 ところで、キリシタン墓の特徴とは何か。臼杵市のキリシタン遺跡これも「臼杵市のキリシタン遺跡」にある。一つは「花十字架」「洗礼名」「ローマ字による人名表記」などキリシタン意匠を施した墓碑であること。二つ目はキリシタン特有の伏碑(ふせひ)であること。もう一つキリシタン関連の遺物については意匠がキリシタン意匠であること。こうしたものが認められる遺跡をキリシタン墓と定義している。

 下藤キリシタン墓地にはそうした典型的な墓碑もある一方、キリシタン意匠がない無紋の墓碑も見られる。大石さんは、布教期の墓群と、為政者の禁教政策による空白期、仏教などとの共存期、そして、仏教式の墓だけになる時期、と時代の流れが下藤キリシタン墓地でうかがえるという。

 先祖がキリシタンだった過去。消そうにも消せない記録が残されていった。マレガ神父が収集した臼杵藩の資料にもそれがあった。マレガ文書の調査研究チームの国文学研究資料館研究主幹の大友一雄さんが披露した。

 例えばマレガ文書に元禄12年(1690年)の届があった。「源七」「壱歳」。転(ころび)キリシタン新右衛門のひ孫と記録されている。新右衛門-庄兵衛-喜之助-源七。キリシタンの系図が記録された。シンポジウムの会場それはかえって先祖がキリシタンであることを子孫に意識させる結果になったかもしれない。

 空白期を経て仏教と共存する形で無紋のキリシタン墓が出てくるのも、そうした事情と関係するのかもしれない。

 基調講演に続くディスカッションで大友さんが示した別の資料も興味深かった。正徳元年(1711年)の臼杵藩におけるキリシタン類族の状況である。

 領内の人口6万5380人のうち、先祖にキリシタンがいたのは1万4865人。ほぼ4人に1人の割合だったそうだ。キリシタンの系譜は記録されていった。

 今、野津を歩いてもキリスト教とかかわりはうかがえない。わずかに遺跡があるだけである。しかし、古文書などによって今に繋がる歴史が明らかになる可能性がある。今まで気が付かなかったキリスト教文化の影響などが見えてくることもあり得る。調査をさらに続ければ意外な発見が相次ぐことになるかもしれない。                            

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