大分市に人口減少の波

帰り道に立ち寄った明野地区の一角 朝のNHKで「大分県の人口が23年連続で減少」というローカルニュースが流れていた。ニュースのポイントは「大分市を含む県内の18市町村すべてで人口が減少に転じたのは今回が初めて」ということだった。いよいよ県都・大分市も人口減少の波に飲み込まれることになるのかと驚きを禁じ得なかった。

 それと同時に職業訓練校(ポリテクセンター大分)の帰りに遠回りして、明野地区に行ってみようと考えた。「明野」は1960(昭和35)年以降の大分市の発展を象徴する地域と言っていい。65(同40)年から大規模な団地造成が始まった明野地域は新産業都市・大分に進出した企業の従業員の受け皿となって人口が急増していった。

 大分市史(下)の近代・現代編に「住宅団地の登場」という一項目がある。「戦後困窮した衣食住のうち、最初に事情が好転したのは衣、次いで食といわれる。しかし、住だけは最後まで残り、住宅不足はなかなか解消しなかった」

 「特に都市化が急速に進んだ大分市などでは、地価の方も並行して高騰した」。さらに、1959(昭和34)年に造成が始まった大分・鶴崎臨海工業地帯の建設が進むにつれて「人口増加による住宅難が予想されるようになり、大分県では住宅団地づくりの計画を立てて、第一号団地として昭和36(1961)年に城南団地が着工された」

 

 その次が明野団地だった。大分市史はなおも続ける。「つぎの公営団地は明野だった。40年前の明野団地(大分県資料)かつては全くの原野だったところで、戦後、ここに開拓の人々が入植した」。入植した人々が「明るく開け行く野」との願いを込めて明野と名付けたのだそうだ。市史によると、ここで城南団地とは比べものにならないほど大規模な宅地開発(185ha)が行われ、最終的には6500戸というマンモス団地が登場した。

 「この団地の特色は進出企業、たとえば新日鐵、昭和電工グループ、九州石油などの社宅と、一般住宅が共存していること。このあたり『リトル・トウキョウ』ともいわれたが」と市史は続けている。

 大手製造業の進出とともに大分市の人口は増加を続けた。大分県の資料「知っておどろく! 大分コンビナート」によると、1964(昭和39)年の新産業都市指定時に約23万7千人だった人口は2倍の48万人近くになった。

 しかし、こうした話は今は昔である。大分市の人口の伸びも頭打ちになっていた。そして、NHKのニュースによると、「市町村別では、大分市で出生数から死亡数を引いた人口の『自然減』が、転入者から転出者を引いた『社会増』を上回ったことから、初めて、前の年より49人減って47万8537人となりました」という。

 誤差といえるくらい小さな数字かもしれない。だが、減少は減少である。今のままでは中長期的な人口減少に歯止めをかけ、反転させることは極めて難しいだろう。

 それはともかく、個人的には「50歳」を越えた明野団地の現状と課題を調べてみたいと思っている。

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