明野団地が生まれた頃

緑町、西町と宅地造成が続いた 明野地域で大規模な宅地造成が始まったのは1965(昭和40)年。第一工区は緑町だった-。明野団地開発50周年記念で発行された「明野のあゆみ」に年表がある。それに沿って明野地域の開発の歴史を見ていこう。2年後に県営住宅・分譲住宅200戸余りが完成し、住民の入居が始まった。そして、この年に第二工区(西町)の造成が始まり、翌68(同43)年には第三工区(北町、元町)、第四工区(東町、旭町、南町)の造成に着手。大分臨海工業地帯に進出した企業の社宅用地として発展していく。

 「明野のあゆみ」には71(同46)年に名古屋から大分にやってきた主婦の話がある。「明野団地は毎日毎日が民族の大移動で、室蘭、釜石、東京、名古屋からの転入者で、日に日に一大団地へと膨れ上がっていった」と当時を振り返る。

 海岸部の埋め立て地に進出したのは九州石油、昭和電工、富士製鉄(現新日本製鉄)といった大企業だった。大手の相次ぐ進出の背景には地元の熱心な誘致運動とともに国の産業政策があった。

 71年に名古屋から来た主婦の証言をもう少し引用したい。「夫は一年前から単身赴任で独身寮で生活していたが、社宅が完成し、子どもたち(中1生と小6生)も学年末ということで明野に入居した」。

 大分駅前でタクシーに乗り、明野を目指した。明野の第一印象を主婦は次のように語る。「途中の道は曲がりくねった砂利道で、横は崖とうっそうとした樹木が茂り、崩れ落ちそうなトンネルを抜けてやっと明野へ、まだ団地造成中の場所は大型ブルドーザーが大きな音とほこりを立て、片方では既に生活が始まっている昭電(昭和電工)や県営のアパートが十数棟南西に建っていた」

 「日々の生活必需品は、一軒だけのバラック建てのインダストリーと、巡回してくる八百屋から購入していた。雨が降れば買い物に行くのに赤土のドロンコ道を、長靴を履いて出かけたものである」

 小6生の次男はこの年開校した明野西小学校に入学。学校施設が整備されてなくて運動場で入学式があったという。明野地区では翌72(同47)年に明野東小学校と明野中学校が開校、75(同50)年には明野北小学校が開校した。明野地区の急膨張がここからもうかがえる。

 ちなみに主婦の夫の勤務先は新日鉄大分製鉄所だろう。「明野のあゆみ」によると、新日鉄は明野地域に社宅1598戸、独身寮466室のほか、体育館や野球場なども造ったようだ。

 新産業都市大分の誕生の背景には国の政策がある。全国総合開発計画の推移それが全国総合開発計画(全総)である。全総は第一次から第四次があり、臨海工業地帯と明野地域の開発が計画された時期は第一次全総に重なる。第一次の全国総合開発計画は62(同37)年、当時の池田内閣の下で策定された。その目標は国土の均衡ある発展である。もう少しかみ砕けば「都市の過大化の防止と地域格差の是正」。東京一極集中の是正は今につながる課題である。

 その具体的な施策が当時は工業の再配置だったわけだ。大分県はその流れをつかんで大分市が新産業都市の一つになった。もちろん企業も国の政策にただ従ったわけではない。安価な労働力の確保などメリットがあったからこそ、流れに乗った。地方自治体、国、企業の思惑がうまくかみ合った結果といえる。

 工業都市・大分の基礎はこのとき築かれた。今の大分市は「その遺産で食っている」と言えば言い過ぎになるか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です