毘沙門橋の由来を探る

赤く塗られた橋に「毘沙門橋」の文字が 大分市内で、歩いて巡れるような七福神の参拝コースがないかと思い、調べてみたことは以前の日誌に書いた。最初に1月4日付「七福神巡りもクルマで」で書いて、1月8日付の日誌では大分県立図書館に参考資料を探しに行ったことも報告した。その時は資料を見つけることができなかったが、18日は県立図書館にあった「大分市史」の中に記述があるのを見つけた。

 1915(大正4)年3月発行の「大分市史」には「毘沙門社」の見出しで、1956(昭和31)年3月発行の「大分市史」には「毘沙門堂(日蓮宗)」の見出しで、それぞれ短い説明がある。

 七福神に関する手掛かりはまだわずかだが、地道に掘り起こしていけば少しずつ出てくるかもしれない。ちなみに56年の大分市史の説明には「豊府聞書」が引用されている。これは元禄11年(1698年)に戸倉貞則という人物が書いたものだそうだ。ただ、この「戸倉某」なる人物が何者かは分かっていないのだという。

 さて、毘沙門堂はどこにあるのか。市史を見ると「志手」とあり、「堂前を流れる毘沙門川という川の名が当堂に因んでいることはいうまでもない」と書かれていた。小さな川にかかる毘沙門橋毘沙門川は通称で、正式には「住吉川」という。現地に行ってみると、小さな川に赤い色の橋がかかっていた。その前の民家風の建物が毘沙門堂のようだ。

 56年の大分市史によると、「明治の初め頃より日蓮宗に属するようになった。大正12(1923)年堂宇を改築して草ぶきを瓦ぶきに改めた。開運に霊験ありとして商人の崇敬が厚い」とある。昔は参拝者が多かったようだ。

 今は住宅地の中で目立たないたたずまいの毘沙門堂にかつては多くの人が訪れた。当時から何が変わったのか。少し調べてみたい。

 豊府聞書についても書きたいことがあるが、詳しくはこの次に。江戸時代に書かれた豊府聞書は漢文であり、読むのに苦労して、夕方前にくたびれてしまた。

 聞書は7巻からなるようだ。その始まりは大友能直(1172~1223年)で、大友家21代の大友宗麟など大友氏の盛衰を経て、江戸期の明暦年間(1655~1658年)まで至る。その間の為政者、政変や戦、天災、寺社仏閣の興廃など大分(豊後)で起きたさまざまな出来事を記録している。

 毘沙門堂の詳細に関してもさらに調べて改めて書くことにして、今回は毘沙門天に関する小さな発見を報告するにとどめたい。

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